日々思うこと2015

1月1日
新年、あけましておめでとうございます。今年もよろしく。
2014年のブログを固定ページにいどうした。昨日は、8月の中頃まで、推敲した。8月は、梅原猛「仏教の思想」を読み始めて、面白くて、色々聖人について考えて、自治会の行事におわれていた。
1月1日が、もう直ぐ終わる。今日は掃除をした。掃除をして、囲炉裏に炭を焚いて、風呂に入って、焼酎「黒馬」を買ってきて、テレビを見ながら、飲んでいた。あしたは親戚が来る。今日の朝、鮒鮨、生麩、シャケ、鰹を冷凍室からチルドに移動した。ふらんすぱんもかったし、アンチョビも買った。生湯葉も買ったし、サラダの材料も買った。なんとかなるだろう。
明後日は、横川へ初穂料を持って上がらなければならないのに、今日は雪。
1月2日
雪が積もっている。この冬一番かもしれない。今から、起きてお雑煮を作る。この地方では、お正月の三日間は男がお雑煮を作る。
1月3日
今日は奥比叡ドライブウェイを登って横川へ。お雑煮作りも最終日。昨日の料理、メインはここら辺ではニワトリのすき焼き、これは砂糖と醤油で味をつける。かしわ屋に近江軍鶏をたのんだが、売り切れで、ナゴヤコウチンになったので、八丁味噌で食べた。これは広大の教官(名古屋大学から来た)のお家に寄せていただいた時にいただいた食べ方。鍋に水を入れて、八丁味噌を溶いて、ナゴヤコウチンとネギだけを入れて食べる。白滝や焼き豆腐、椎茸も入れて、卵でうちは食べた。よく売れたフランスパンの薄切りと、アンチョビ、コーンビーフ、ウインナーをトーストしたものも良く売れた。湯葉や、生麩の刺身も出した。あまり、脂っこくないものに最近はしている。
横川中堂は雪だった。ピストン運行のバスに乗って、横川中堂まで行って、初穂料を納め、鏡餅を9軒分預かって、帰りは徒歩で駐車場まで向かった。空海と最澄。佛教というには、それぞれの人生は、もっと違ったものがいっぱいあったのだろう。佛教を選んでしまった二人。弘法大師と伝教大師。今年は、この二人から、釈迦を見つめたいというような気になってきた。真言宗と天台宗、金剛峰寺と延暦寺。
1月4日
今日は、お雑煮を作らなくてよかったので、青空物語を書いた。3まですすんだ。3では、外人さんと高校生が登場した。市朗くんのお話の中では、成層圏プラットホームが出てきた。本業の、「樹雨屋」と「身は水素より軽ければ」に、手がつけられない。
今日はコジャックが始まった。お風呂とサウナと、法華経でゆっくりできた。帰ってきてから、おでんを作った。日本酒によく合う。
1月4日
今日は、お雑煮を作らなくてよかったので、青空物語を書いた。3まですすんだ。3では、外人さんと高校生が登場した。市朗くんのお話の中では、成層圏プラットホームが出てきた。本業の、「樹雨屋」と「身は水素より軽ければ」に、手がつけられない。
今日はコジャックが始まった。お風呂とサウナと、法華経でゆっくりできた。帰ってきてから、おでんを作った。日本酒によく合う。
1月5日(日)→(月)
曜日を入れないと曜日を忘れてしまう。仕事があるときには、曜日が頭の隅にあるのだが、仕事がないと、今日が何曜日だったのかが、出てこない時がある。今日は日曜日。と書いて思い出した。今日は月曜日。昨日、買い物をしていた時に、資生園のYさんと偶然出会い、明日は友だちのお見舞いに行くので、仕事は6日から出ます、と言っていたのを思い出した。昨日から、ブログは、2015・1②担っていなければならなかったので、今から直す。直ったので、青空物語を少し書いていこう。青空も4になる。
お見舞いに日赤に行ってきました。その行き帰りに、Kちゃんと哲学的な話をたくさんしました。ソクラテスと釈迦は死ぬ前に笑った。ソクラテスも釈迦も、死が安堵なのだろう。釈迦が氏を拒んだわけは、もっとたくさんの人を救いたいから、自分はまだ死ねない。でも仕方ないから死のう。そして、死ぬことは今の使命からは解放されて楽になるということで、死を許容した。ソクラテスは自分が死んだら、自分はハデスにいくものと確信していたから、あれだけ陽気に振る舞えた。でも、二人の死は俗物のぼくたちと同じ死だ。それを悟りと言うのだろうか。日本の妖怪に「サトリ」がいる。サトリは人の心が読み取れる。でも、人が考えなければ人の心が読み取れない。人が、悟りを捕まえようと考えれば逃げればいいし、石をぶつけようと考えれば、石をよければいい。学習発表会のシナリオでサトリをつかまえろというミッションを考えた時に、自分の二人の子どもから、パッシングをくらった。「なんで、サトリを捕まえなければならないのか」その時は、サトリはいたずら好きだからと答えたが、見ている人に無理だと思わせて、それを成し遂げるという筋書きを考えたのだと思う。サトリは人の心がわかるので、人が考えていない偶然、その時は石に蹴躓いたかなんかして、偶然に捕まえたということにしたんだっけ。悟りは完璧ではないのだろう。悟るイコール穏やかな死ではないのだろう。でも、悟りしか、死への恐怖からは逃げられないのだろう。でも、僕の身近で死んでいった人たちの死に際はみんな悟って死んでいった印象しか残っていない。
1月6日(火)
今日は初仕事。何が待っているのか、なまった体を鍛えよう。
1月7日(水)
昨日は、久しぶりに、資生園へ行って仕事をしてきた。棚並べと袋破りと菌床廃棄と棚の洗浄、棚の洗浄をやり始めたら、お昼になったので帰った。青空物語以外のものも書かなければと思う。昨日は、ちょっとだけ樹雨屋の下書きをした。今日は、仕事が終わったら、図書館へいこう。図書館には行けなかったけど、コジャックで坂田明の本を読み、コメダ珈琲で一時間半ほど、青空物語を書きました。陶芸がしたい。何年か前に、岡山駅で買った徳利と猪口で今日は、熱燗を飲んだ。
備前焼は日本最古のもので、鎌倉時代に伊部の北、熊山で初めて焼かれました。『備前焼』の良さは、「土味・火味」であります。釉を施さない。それゆえ、原土の優秀さ、自然の焼成を、より要求されるのです。…………と説明書に書いてある。陶芸をやりたい。
1月8日(木)
今月、書き終えれば、半年、毎日文章を描き続けた事になる。青空物語を書いていると、なんとなく、宮沢賢治がポラーノの広場を書いている時はこんなんだったんじゃないかというような気がする。地味に地味に、投げ出したいけど、地味に文章を綴っていく。手を休めれば、多分完成しないだろう。賢治はまっすぐな人だったが、僕は違う。昨日、ふと、太宰治を思い出した。もうしばらく、全集を開いていない。文学も音楽のように、最近、あの歌手の歌を聞いていないなというように、彼の作品読んでいないなという気持ちになるときがある。宮沢賢治、太宰治、沢木耕太郎、川上健一、ドストエフスキー、…………。ゆっくりした場所で、ゆっくり本を読む。そんな場所は、病院か、図書館だけしか今はない。昔はジャズ喫茶だった。でもジャズ喫茶はここら辺にはない。病院も、今の所入院とかしないだろう。図書館しかないということは、図書館を敬遠してしまう材料になっている。
1月9日(金)
昨日、資生園の仕事が終わってから、葛川へ行ってきた。比良山の方を見ると雪が降っているみたいなので、つい車を走らせた。「茶房」(坊村の喫茶店)へ行って、マスターと、奥さんと、息子のTと3時間ほど喋ってきた。葛川の小学校に勤めていた頃小学生だったTの子供が、来春、小学生になるという。Tは、森林組合の仕事があると、出かけた。旧道の雪かきだという。夏場は店をやっていて、冬場は森林組合の雪かきを手伝っている。みんな頑張っている。喫茶店で、懐かしい人にも出会った。知らず知らずに3時間が過ぎていた。帰るときは、坂下、平の道は白くなってきていた。
1月10日(土)
新年挨拶会。あと1日。明日も自治会の飲み会。
1月11日(日)
今日は、8時半から日まちという行事があり、3時からキトウカイという行事がある。まの三日間の最終日。今週は雪国教室の応援もある14、15日。今日は祈祷会。千手観音の観音堂で18人の男たちが、般若心経をとなえる。摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行人般若波羅蜜多時 照見五薀皆空度一切苦厄舎利氏 色不異空 空不異色………
なぜだろう。色不異空 空不異色とか色即是空 空即是色とか不生不滅 不垢不浄 不増不減とかわかるような漢字並びがある。その後、なおらいといわれる宴会。四時から始まって八時には終わっていた。魔の三日間が終わった。明日も、青空物語か?一番書いていて楽しいが、他も書きたい。でもちょっと休むのは、青空物語を休むのはこわい。正臣くんも、恵利、澪、奈美の三人娘も今書かないと、素直に書けない気がする。
1月12日(月)
魔の3日が開けた。でも今日は、コジャックがやっていない。昨日からiTunesStoreで坂口安吾を4冊ダウンロードした。最初に、「太宰治情死考」、次に「黒田如水」、そして「落語 教祖列伝」「安吾の新日本地理ー長崎チャンポン」。太宰治と安吾は無頼派として括られる。いつの時期だったか、無頼派作家ばかり読んでいた。織田作之助の「可能性の文学」も太宰を擁護する文章だった。この三人が御三家だと思っていた。田中英光も読んだ。でも檀一雄は一冊も読まなかった。なぜかというと、檀一雄はその頃生きていたからだと思う。
安吾は太宰治がサッちゃんと玉川上水へ身を投げたのは、泥酔していたからだろうという。太宰のような男であれば、女に本当に惚れれば、死なずに、生きるであろうという。
また、太宰は小説が書けなくなったと遺書を残しているが、小説が書けない、というのは一時的なもので、絶対のものではない。こういう一時的なメランコリを絶対のメランコリにおきかえてはいけない。それぐらいのことを知らない太宰ではないから、一時的なメランコリで、ふと死んだにすぎなかろう。
そして、そんなことはどうでもいい。要するに作品だけが重要なんだという。スキャンダルと作家は特に太宰のスキャンダルは彼の正直な不器用な生き方からきているから、安吾のように、織田作のように、太宰のスキャンダルを好意的に解釈してくれる仲間がいた、というのもいいではないかと思って読んでいたし、今も読む。
1月13日(火)
明日は雪国教室。
日々思うことを書いていくことって、どんな意味を持っているのだろうか。と考えなくてはいけないのかな、と思ったりする。分からない。何年か前に、友だちと話したことがある。定年にはなっていなかったし、定年が近づく頃だったと思う。その広島の友だちは、最近、書き残しておかないといけない気持ちになってきたから、書いた文章を発信しようと思っていると言っていた。その時、僕は、退職したら、小説を書き上げようと思っていた。でも退職して、一年、1,000枚書こうとしたが、100枚第1章しか書けなかった。それから2年。去年の8月、地元の友だちにこのページを作ってもらった。それから、毎日、1時間以上は、キーボードを叩いている。書き残しているのか?と問われれば、そうかも知れない。と答えるだろうし、吐き出すとか、書く練習とか、誰かに読んで欲しいとか、こんなことを知ってもらいたいとか、勉強したいとか、いっぱいあって、どれが重くて、どれが軽いとかは無い。ということははっきり言える。
ユーチューブでやしきたかじんと鶴瓶の対談みたいなものをさっきまで視ていた。その前に、釈迦の話をしているのも視た。たかじんも、鶴瓶もなんとかいう人も、同じなんだろうな。思っていることを、吐きだす。そこに、本人だけの思いがたくさんあるのだろう。お金のためでなく。政治について、語ることも一つの吐き出しだし、でも、「政治の幅は生活の幅よりも狭い」埴谷雄高が言った言葉。政治について書くことは、ちょっと敬遠してしまう。嘘っぽいから。
1月14日(水)
今から、葛川。昨日は、書く時間がというか、書く意欲が結構あった。広島の推敲にも手がつけられた。今日はもうあまり時間がないので書けない。明日は、どんど焼き。朝飯も食べずに帰って来なければ。そして午後は資生園、松岡満へプラダンの輸送。山は雪だ。本格的な冬の季節、立春は一番冷え込む。立春が来れば、樹雨屋を書いて行こう。そして、できれば、来年の節分までに書き上げたい。
1月15日
1年振りの雪国教室。帽子、を忘れたので、コンビニに寄ってから葛川へ行こうとしたのだが、コンビニには手袋しか置いてなかった。ネックウォーマーの棚にも手袋、帽子の棚にも手袋。諦めて、葛川、利用者駐車場が積雪のため使えない。葛川支所の駐車場で、子どもたたちが乗ってくるバスを待っていると、葛川のスクールバスが来た。地元の人も続々集まってくる。懐かしい顔。そしてバスが来て、自然の家へ。また、懐かしい顔。「青空物語」のキャラクターに借りている子どもたちと、活動。石山小も来ていた。少年自然の家のメンバーも変わっていた。所員の泊まりは、以前から知り合いの所長、4月からの赴任だと言っていた、地元の知り合い、そして、毎年出会う若い男の子。願わくば、この立地条件だから、体験できる活動があったらなと思った。朝6時に起きて、外は雨、支所の駐車場まで歩いて、車のフロントは雨で凍っていなかったのでラッキーだった。だがどんど焼きのために帰ってきたのに、現場へ行っても誰もいない。電話をしても誰も出ない。結局、延期だった。残念。午後は資生園へ行くが、松岡満へも運送も変更されそうで怖い。予定通りにいかないと、それが、連続するというのは、確率の落とし穴なんだろうか。幸運が連続したから、不運が連続することもあるのが、公平で、そうでないと、辻褄が合わないという。
1月16日(金)
Sさんの案内も兼ねて、松岡満まで二人でプラダンを昨日運んだ。Sさんは資生園へ研修に来ている人。福祉関係の人だ。今、ハウスが建設中だという話だ。よく働く人だ。資生園の人もよく働く。
1月17日(土)
今日も、どんど焼きのスタッフ。8時半から。今のところ、運気は普通だ。こういう時は気をつけなかれば、どちらへ転がっていくか気をつけていなければ。
1月18日(日)
活性化委員会主催のどんど焼きがあった。雨雪混じりの悪天候。ぼくらは餅つきの担当。納豆餅がよく売れた。つきたての餅に大粒の田舎納豆を挟み、きな粉をまぶす。八時半から二時半まで、6時間。寒かった。餅の食べ方で、ぼくが美味しいと思うのは、焼いた餅に醤油を塗って、マヨネーズをかけて、海苔を巻いて食べる。学生の頃、下宿で京都出身の友達に教えてもらった。
1月19日(月)
三木成夫の『生命とリズム』から
「死してなお人の心に鮮やかにその”すがた・かたち”が残る時、その人間の「いのち」というものは、まだ亡びてはいない。「生」の本来の意味は、このようなものではないかと思われるのです。」
この文章は、「生とはなにか?」という書き出しで始まる看護学校での講演の中の文章である。
地・水・火・風の四大グループは「生命」を持たないので無生物。植物・動物・人間の三大グループは「生命」を持っているので生物。ヨーロッパではかなり以前にその考え方があったが、そこでもまだ、生活の終わりは生命の終わりではなかった。死んでも命はまだ続いていた。永遠の眠りについただけだった。それが、歴史の流れの中で、
「〈死〉こそすべての〈生〉すなわち〈生活〉だけでなく〈生命〉までも奪い去る恐ろしい”断末魔”ではないか」
という考えが世界中に広がった。
1月20日(火)
昨日は、日吉台小と、同級生の友だちのところへ、椎茸の菌床を持って行った。先週の休憩時間に、Yさんに、菌床の作り方を聞いた。椎茸菌は樫とか椎の木でないと椎茸にならないような気がして、尋ねると、広葉樹のおがくずと、椎茸の栄養になるトウモロコシの茎を裁断したものや、しいたけ菌を混ぜて、高熱殺菌して袋詰めにしてねかせると、初めは真っ白なものが褐色になってきて、芽が出てくるのだそうだ。それを友だちのところへ持っていって、一時間ほど喋って帰ってきた。三木成夫の話もしたが、うまく言えなかった。昨日の続きを書くと、
“すがた・かたち”というのは、何も考えずに対象を見たときに、眼に映るものという意味だろう。
「路傍の石ころひとつをとっても、軒の雨だれのひと滴をとっても、それらはみなそれぞれの表情でもってわれわれに生き生きと語りかけてくる」
お日様が微笑みかけているとか、山が怒ったとか自然に命が宿っているかのように使うのは、日本人だけではない。世界のどの国でもそういう使い方をしている。昔から人間は、自然に満ち溢れている生命を感じていたのだろう。
“すがた・かたち”と相対する概念として、”しかけ・しくみ”がある。”しかけ・しくみ”とは上のお日様の微笑みとか、山の怒りのような言い回しは、主観的な表現であって真理ではない。真理とは誰が見ても変わらない純粋に客観的なものでなくてはならないという考え方。そして、”しかけ・しくみ”を見る目と”すがた・かたち”を見る目が人間にそなわっている。
1月21日(水)
昨日の会議はすぐに終わった。7時半に始まって、8時過ぎには帰ってこれた。今日は葬式があるので、仕事を休んだ。
昨日の続き。うまく言えない。うまく言わなく手もいいのかも知れないけれど。人と話していて、政治の話やスポーツの話になると、どうしても、”しかけ・しくみ”を探りながら、話題を膨らませていく。民主党の代表選が終わった。岡田氏が代表になった。民主党の巻き返しになるのかどうかわからないが、ある程度満足する。なぜ、満足かというと、以前に、自民党のゴシップ攻撃にあった時に、あまり感情的にならずに、引き下がった印象が僕の中にあるから。スポーツでいうと、なんども書くが、黒田がカープに帰ってきた。出るときは、みんな、挑戦してみたい気持ちと、自分を育ててくれた球団への感謝の念を述べて、きっと帰ってくると言って旅立つ。しかし、大リーグへ行って、元の球団に帰ってきた選手はあまりいない。しかも、黒田のように、金銭抜きの復帰は男気を感じる。馬場と猪木はどちらが強かったのだろう?それも、仕掛けと仕組みをいかに深く読むかで会話が弾む。そして、心理の仕掛けや、仕組みに意味を持たせるともっと盛り上がる。人は、どうしても、仕掛け仕組みを追求したいのだと自分のことを考えてもわかる。脳で考えることと、心臓で考えることを人間はしているらしい。すがた、かたち=脳で、しかけ、しくみ=心臓というのではないと思うのだけれど、それに近いものだろう。『樹雨屋』で書いていきたいのもそんなものだろう。だから、太陰太陽暦を道具にしたのではないか。そのことをちょっと忘れていた。
1月22日(木)
今日の資生堂園は、芽掻き。芽掻きと、間引きの区別がつかない。ちょと飲んでいるので、今日のブログはやめたほうがいいかもしれない。明日は、三木さんの話を書こう。
1月23日(金)
今日、コジャックで『生命とリズム』読んでいた。先人のこと、ゲーテとアリストテレス。アリストテレスが生物の三大グループのことを考えたらしい。植物は、食と性、動物は、それに感覚と運動が備わる、そして人間には理性が備わっていると書いたらしい。そこで考えると、植物が存在しているということは、例外はあるのだろうが、土の養分を食し、太陽の光と水、空気を吸収して、受粉して、子孫を残す。動物は、植物を食し、または、植物を食した動物を食し、子孫を残していく。植物は根を張った場所というか、種が落ちた場所を移動しないで、一生を終える。浮き草や、地殻変動、人間による移植などの例外はあるが。動物は移動をするので、危険を察する感覚と運動が必要となるが、魚鳥類なんかは、繁殖の場所が遺伝子に組み込まれているのか、同じ場所で卵を産む。大きくなる場所も決められている。移動はするが、食の場所と性の場所を頑なに守る。では、人間は?人間ってなんなのだろう。本当に地球に生まれてきてもよかったのだろうか。ゴキブリの光を感じて活動する感覚を狂わしてしまうし、シャケが遺伝子の中に組み込まれた性の場所へ帰って行く途中にダムを作る。人間に備わっている《理性》を本来の意味で備えている人間は人間の中にどれだけいるのだろう。人間の研究を人間じゃない何かに研究して貰って、その結果が知りたい。
1月24日(土)
桂春蝶のの「一文笛」、スリの人情話、そういえば、子どもの頃は、ひいおばあちゃんが「ちぼ」ということを平気で使っていた。スリのことを「ちぼ」というらしい。語源はわからないという。名人のようなちぼの話。「がんばれ元気」が東京へ出て出会うのもスリのおじいさん。両者に共通しているのは、スリの誇りといったようなもの。ちぼというか、スリというか、一人の若いものが兄貴を訪ねる。兄貴はとっくの昔に足を洗っている。兄貴は「カタギになれ」と言うが、若いのは、「金持ちの財布しか狙わない」という。兄貴が、「この前、俺を訪ねて来た時に、かどの雑貨屋で一文笛をやっただろう」と言う。思い出して、ごうつくなババアが、貧しい身なりの女の子が、笛を触っていると「お前は、どうせ金がないのだから、触るな」、ひどい仕打ちをみた、若いのは、笛をくすねて女の子の懐へ入れて帰っていく。その後、女の子が、どうなったかというと、懐の笛に気がついて、ちょっと吹いてみたら、ごうつくなばあさんに見つかって、家へ連れて行かれる。女の子の親は落ちぶれた武士。取った覚えがないと言い張っても許されない。そこで女の子は、井戸に身を投げ、長屋の人に助けられるが、意識が戻らない。その話を聞いた若いのは自分の指を切り落とす。ここから先を書くと、オチになるので書かないが、桂春蝶の落語は時々聴きたくなる。「一文笛」の枕の部分に『生命とリズム』と共通しているような話があったと思ったので書き始めたが、忘れてしまった。今日は、大津市広報の配布物の準備をしなければならない。
1月25日(日)
昨日は、広報を配ったので、ちょっと気が楽になった。今日は、昨日買った「1964年のジャイアント馬場」を読んでいた。子どもの頃から本当にプロレスが好きだった。日吉台小学校にいた頃は、年に何回か来る、全日や新日の興行は全部見に行っていた。ある時、皇子山体育館へ全日本プロレスが来た時に、会場に入ったところで、ジャイアント馬場がサインをしているところを見た。本当に大きかった。ガウンを着て、めんどくさそうに、サインしていたが、凄いと思った。人間とは思えなかった。架空の動物がいるような感じだった。同じ皇子山体育館でアントニオ猪木を見たときは、普通の人間に見えた。偏見かもしれないけれど、僕はずっと馬場派だからなのかもしれないけれど、ジャイアント馬場を見たときはすごかった。アントニオ猪木はそんなジャイアント馬場を自分を売り出すために利用してきたと思う。しかし、その本で、渕が言う。全日と新日の引き抜き合戦の時、猪木さんの悪口を一度も口にしなかった馬場さんが、新間寿の言動に、「やり方が汚い」と言ったそうだ。
1月26日(月)
まだ、寒いが、冬が終わって行っている気配がある。今週で、1月も終わり。このじかんのながれの速さはなんなのだろうか。今まで感じたことがない速さだ。このまま、同じ速さで、進んでいくのだろうか、不安になってしまう。イスラム国のニュースも、大相撲の優勝の事も、そんなに関心なく二日間が過ぎた。ジャイアント馬場を読んで、吉本隆明の講演をネットで聞いて寝てしまったら、もう月曜日。今日の資生園の仕事は、プラダンの梱包と袋剥き。帰って来てから、青空物語を書いた。文章が長くなると準備に時間がかかる。今3万1000字を超えたので、40,000字になったら、青空物語2にしないとと考えている。それと、青空物語ノートを作らないといろいろな食い違いが出てくる。
1月27日(火)
河川愛護の提出物の催促がきた。いつになっても締め切りが守れない。きっと小学生の頃からそうだった。きちんきちんと、締め切り前にすましておいたら、こんなに楽なことはないのだが、今年は、それを目標にしてみよう。今日は、仕事が終わったら、日吉台と市役所。市役所へ行く前に、自治会長と会計にハンコをもらう。全てうまくいった。昨日の鬱は解消した。日吉台小学校で、椎茸が順調に育っていた。市役所も行った。日吉台で宿題を貰ってきた。卒業文集のメッセージを書かなければならないことになった。
1月28日(水)
今日は、日吉台の原稿と椎茸の菌床を二つだれかに届けよう。それとじぞうさんの会計。これを書いておくと、先延ばしにしなくなるかもしれない。退職した年は、毎日ノートに書いていた。
1月29日(木)
昨日、日吉台の卒業アルバムの原稿はなんとかできた。それと足が痛い。尿酸値が上がっているのだろう。昨日はアルコールをぬいた。今日と、明日も禁酒だ。断酒か。ギルビーズのウォッカを飲んでしまった。
1月30日(金)
今日は、足の痛みは楽になった。明日は飲み会。水が一番だと思う。色々むしゃくしゃと考えている。
1月31日(土)
「青空物語」が33,900字、もうすぐ40,000字になる。ノートをまだ作っていない。今日は、6時半から飲み会。中学の時の同級生が何人か集まる。三日間断酒というか、二日は節酒になってしまったが、足の痛みは治った。
2月1日(日)
去年の8月からブログを始めたので、ほとんど半年が過ぎた。一年毎日続ければ、何かが見えると思ってやっている。昨日、青空物語をプリントアウトしたら21ページあった。青空ノートを作った。誤字脱字が、いっぱいある。少しずつ推敲していこうと思う。昨日の飲み会は中学の時の同級生が五人と三つ年下が一人。チャンコだった。
2月2日(月)
明日が節分で、明後日が立春、やはりこの頃に雪が降るんだな。節分は冬と春を分けているから、節分の前が、最高の冬になっているんだな。そして、学校に勤めていた頃は、そんなことを考える余裕もなく、猛スピードの加速が始まる頃で、そういえば、作品展だ。作品展を見に行っていない。今日行かなければ、もう終わったのか、先週だったのか、とりあえず、今日行ってみよう。
2月3日(火)
節分。昨日は歴博へ行ったが休館日だったので、今日の仕事が終わったら行ってみよう。朝起きると、iPadのSafariをタップして、このページを開いて、仕事に出るまで書いている。どのタイミングで着替えられるかが、なかなか難しい。枕元に中学生の卒業に向けてのメッセージの原稿用紙が置いてある。締め切りは28日。時が経つのは早い。でも、二十歳になったお酒を飲もうと約束している。あと四年か。生きていると生きているというのは辛いだろう、死ねば楽になるんだよと釈迦に語りかけた悪魔の言葉は、釈迦にとって真実だった。辛く苦しいことばかりではないなと思う。お酒を飲もうと約束した彼は、だからそれまで元気でいてねと言ってくれた。年をとるなという意味を含めて。太宰風に言ってみると、あと四年とにかく生きてみよう。
2月4日(水)
立春、初日の出は曇っていて見ることができない。「樹雨屋」の中で、シゲさんは暗いうちから起きて雪かきをして、初日の出に二礼二拝し、初水を採り、福茶で祝い、春を告げる魚ということで、ニシンを取り寄せて宴会を開く。

立春 旧正月節 春の気が始めて立つの義。
初侯 東風凍を解く(とうふうこおりをとく)
次侯 黄鶯睍晥く(うぐいすなく)
末校 魚氷に上る(うおこおりにあがる)
(二十四節気、七十二候 より)

春の気を感じ、凍りが解けていく様を気づいていくような余裕が欲しい。昨日、蠟梅の花びらが開いていることに気が付いた。冬はもう来年まで戻ってこない。季節は繰り返すが、次に来る冬は、また違った別の冬。64歳の冬がやってくる。
2月5日(木)
もう木曜日、この調子で行くと、中学生へのメッセージの締め切りがすぐに近ずいてくる。今日の仕事が終わったら、手をつけよう。
2月6日(金)
今日は仕事を休んだ。
2月7日(土)
今日も休みなので、青空物語を書いている。もうすぐ、四万字になる。ちょっと締めくくらないとと思う。〈青空・空間〉と市朗くんのお話。青空物語に光蟲を登場させた。ヒカリゴケ自体は光らないということで、蛍のように飛び交う虫ということで、光蟲を登場させたが、光蟲はモンスターハンターに登場するアイテムらしいので改名、火喰い蟲ちょっと怖いが、ヒカリゴケの隙間に入って寝るので、その様子が火を食べているようだということにした。著作権ってなぜあるのだろう。宮沢賢治は農民芸術概論で言っている。百姓は辛い、泥のような労働である。その労働を工夫によって減らし、余暇を作って、芸術に親しめればいいのにと。そのために、肥料の設計や、創作、また、レコードの交換や、音楽鑑賞をやった。人に喜んでもらえる目的で創作活動ってするものじゃないのか。個人情報や著作権の最近の風潮は、ちょっと歪んできていると日々思う。
2月8日(日)
青空物語の第1巻のまとめに入ってきた。
2月9日(月)
昨日から膝が痛い。昨日はコジャックで1964年のジャイアント馬場を読んでいた。青空物語にも、プロレス好きのを出しているけど、本当に好きな人は好きで、八百長か八百長じゃないかを真剣に議論していた。村松友視が「私プロレスの味方です」を出した頃、僕は高校生か大学生だったと思うが技の応酬は相手を強く見せるために受けるが、勝敗は真剣な勝負なんだと思っていた。「一二の三四郎」で桜五郎が三四郎たちに技を教える場面とか好きだった。でも、村松友視も小林まことも、知っていたのだろうか。マッチメーカーという役割があって、勝敗が先に決められていたことを。それでもすごいものだ。業界全体で嘘をついていたのだから、そしてその嘘が効果的で、悪意より業界の発展のためだった。昭和にはそんな嘘がいっぱい存在していて、それが経済や文化を動かしていた。戦争に頼るわけでなく。
2月10日(火)
昨日は、仕事が終わってから、友だちの家へ行って、2時間ほど喋ってきた。プロレスの話中心で、イスラム国の話とか、美空ひばりの話とか。田岡一雄の話とか。
2月11日(水)
今日は、千石賦という小椋神社の決算会がある。
2月12日(木)
まだこれから、推敲しなければならないが、青空物語の第1巻が終わった。学習発表会のシナリオを書いていた時のように楽しく書いている。一人一人の事を思い出しながら。いちろうくんも中学生トリオも、三人娘も、スーもケントもピッピもシューもキャストがいる。みんないい子。そうしか言いようがない。
2月13日(金)
13日の金曜日。13日の金曜日にキリストが死刑にされたというのは、とりあえず間違いであるらしい。最後の晩餐の13人の弟子と磔にされた日が金曜日だった。13という数字が忌み数とされ、金曜日が忌み曜日になってくっついたものだという説がある。よくわからないが、英語圏やドイツでは、不吉な日らしい。ネットで検索すればそれぐらいの知識はすぐに出てくる。イタリアでは17日の金曜日が不吉な日であり、スペインでは13日の火曜日だと書いてある。本当かどうか確かめていないが、そう書いてあると確かめずにそうだと思ってしまう。金曜日の中で一番多いのは13日のだとも書いてある。今日は、仕事が1日ある。午前と午後。午後は松岡満へプラダンを運ぶ。その間に12時から堅田セレマで告別式。予定があるうちは良いとしておくのがいいのか、もっと自分の時間を持って何かしたほうが、例えば、川の土手の草刈りも気になっている。今日は冬型の気圧配置らしい。でも、春の冬型に間違いない。暦と景色がそう思わせる。今日も1日無事に過ごせれば良いということにしておこう。
2月14日(土)
なんとなく、昨日は、13日の金曜日だった。資生園の午前中の仕事を11時前に切り上げて、コジャックでお風呂に入り、ヒゲを剃って、着替えて告別式に行こうとしたのだが、靴を持ってこなかった事を思い出して、娘に持って来てもらおうとしたが、忙しいと断られ、取りに帰ったが、前の車がゆっくりしていたり、イライラした。告別式に、間に合ったが、受け付けも混んでいて、自分の番がきて、記帳簿を見ると、同級生の名前、会いたいと思っていた同級生と偶然出会ってしまった。でも、ゆっくりできる時間がない。申し訳ないが、祭壇に手を合わせて、お見送りできないことを断って、急いで仕事に戻り、車で着替えて、幌付きトラックで、湖南市へ、iPadは忘れずに積んだが、慌てていて、財布と免許証を忘れてしまった。取り付け道路に出るときに、ゴトンと変な音がして、積荷が崩れたのかと心配したが、前にパトカー。免許証を忘れてきたこともあり、ゆっくり運転して、バックミラーを見ると後ろが見えない。左のバックミラーがあらぬ方向を向いている。さっきの音はこれだったのか、幌が付いているので、ルームミラーでは後ろが確認できない。後ろに車がいるのかいないのかわからないし、車線変更も難しい。雪も降ってくる。式場で竜王まで行くんだと友達に言ったら雪のことを心配してくれていたことを思い出した。結果的には雪はそんなに降らなかった。琵琶湖大橋を渡ったところでバックミラーを直して、松岡萬運輸へ、いつもの松岡満の人が、今日は、13日と言ったので、「しかも金曜日、13日の金曜日」と言ったら、無視された。無事終わって、アコム2へ行ったが初当たりがなかなか来ない、連勝中だったが、今日は負けかと思っていたら、最後に連チャンがあり、元金が帰ってきた。13日の金曜日って感じの日だった。
2月15日(日)
2月は早い。もう半分。2月の問題なのか、60代だから、そう感じるのか、ゆっくりしていないから、そう感じるのだろうか、時間をもっと、大切にしてあげないとと思いながら、どんどん、人と会う約束をしたり、本を買っては、読んだり、吟味せずに時間を使っている。使える時間は使えるだけ使って、今だから使えるとも言えるし、でも、もっと、そのメカニズムを知って、上手に使いたい。今日は、京都で友だちにあって飲む。その前に、深夜食堂を見てみたい。深夜食堂は良かった。始まって5分ぐらいで涙腺が刺激された。最後までなきぱなしだった。
2月16日(月)
日曜日は40年ぶりぐらいに、大学の時の友だちと、京都で飲んでいた。懐かしい話がいっぱい出る。今日も午後は中学の友だちと出会う約束をしている。昨日から、また負の連鎖が始まっているような気がする。
2月17日(火)
負の連鎖
日曜日、約束は〈15日5時京阪三条〉、久しぶりに京都へ出るので、映画と本屋に寄るつもりで10時に家を出る。電車が来たので、慌てて階段を駆け上がって、乗り込もうとしたときに声をかけられた「落ちましたよ」財布を落としていた全財産の入った財布。京都駅近くのTジョイで深夜食堂を見て、ブックセンターで、風雲児たち25巻を買って、地下で、ちょっと飲んでから、地下鉄で河原町。古本屋で開高健を買う。時間がある。時間がなかなかつぶせない。6時の約束だと思い込んでいた。京阪三条駅まで帰って、喫茶店で本でも読んで時間をつぶそうと、三条大橋を逆戻りしていたら、声をかけられた。「おい、飯田」今日一緒に飲む京都在住の友だち。救われた。そこへ大阪在住の友だちから電話。大阪とは40年ぶりか、京都市役所前まで歩いてそこで飲む。それから四条へ移動して飲む。そして帰ってきて、次の日携帯を見たら、着信がいっぱい。日曜日の夜、会議があって、司会をしなければならなかった。次の日謝る。ちゃんと頼まれた記憶がない。
昨日、仕事が終わった時に携帯がなった。駐在所からの電話、ぼく名義の軽トラが山道に捨ててあるという。現場に行ったら、ナンバーは外してあって、車検書とキーが車の中にある。エンジンもかかる。訳がわからない。あたふたしたが、山仕事でリサイクルして働いていた車だということがわかった。それから、友だち2人に連絡をして、近くの大学のカフェで二時間ほど喋る。一人はこのページを作ってくれた友だちで、もう一人は金曜日に告別式で偶然出会った友だち。こちら、は中学校の頃から国語好きだった友だち。このブログを見せて、句読点の使い方を指摘された。添削してほしい。編集者になってほしい。頼んでみよう。今日の文章はそれをきにしてか、句点を極力避けた文章になった。
今日は、自治会の会議があって、帰ってきてからは、ユーチューブの深夜食堂、一話一話面白い。竜さんもいいし、その舎弟もいい。第1季の最終で、オダギリジョーが、「その傷の落とし前、きっとつけるから」と、高野山へ行った。締めくくりは、みんな力が入る。パチンコ屋で働く女の子、唐揚げを頼んで、カウンターで寝てしまう。それをみんな、常連が暖かく見守る。情だね、情の世界をかけるのが一番だろう。
2月18日(水)
今並行して、読んでいる本は何冊あるのだろう、竹中労「美空ひばり」川上健一「ライバル」大江健三郎「晩年様式集」、岡本喜八「マジメとフマジメの間」片岡たまき「あの頃、忌野清志郎と」、開高健「言葉ある曠野」、姜尚中「いのち」まだまだある。昨日一冊読み終わった。寝る前につい読んでしまう本、こジャックで読む本、どこかへ出かけるときに電車で読む本、図書館でノートを取りながら読む本。並行して読んでいくうちに、急にその本が気になって一冊の本を一日中持ち歩くことになる。仕事に行く前にコメダ珈琲で、仕事が終わったらコジャックで、コジャックを出て図書館で、家に帰って、寝る前に。昨日読み終わった本は柳澤健「1964年のジャイアント馬場」プロレスの本はブックオフで時々見かけると買ってしまう。プロレスは子どもの頃から親しんできたし、よく議論もした。ずっと騙されていた、力道山に日本中が騙され、戦後が復旧した。レスラーだけでなく、レフェリー、リングアナ、ライターや新聞、テレビ、興行界、それぞれ立場が違う人がプロレスの裏側を書く。読む方も誰のファンであるのかで読み方が変わってくる。ぼくはずっと馬場のファンだった。ぼくが、プロレスを見なくなってからというのは、テレビ中継の時間帯が移動し始めて、暴露本がどんどんでてきた頃だと思う。見なくなってから、馬場は前座で試合をしていたことや、ターザン小林(週刊プロレスの編集長)が全日を立て直す計画を立てたこと、それを馬場さんがしぶしぶ受け入れたこと。昨日は一気に読んだ。
「日本に来て仏像を見るたびに、いつもババのことを思い出す。イエス。ババはブッダなんだよ」デストロイヤーのインタビュー、そのほかにもサンマルチノが「ババはモハメッド・アリと同じなんだよ」ぼくが最後までジャイアント馬場派だったのはそういうことだったんだと思った。
2月19日(木)
ぼくが就職したのは28歳、今から、35年ほど前。その頃は猪木派の方が多かった。ある日、同僚とうちで飲んでいる時、プロレスの話題になった。一人が「ストロング小林との試合の時は、正座をして見たんよ」という。広島での話だ。そこで三年間教師をしていて、滋賀に帰ってきた。おりしも世は新日ブーム。猪木はどんどん大きくなっていく。新聞の勧誘があったので、朝日新聞と大阪スポーツを申し込んで、毎日大阪スポーツのプロレス記事を読んでいた。「週刊ファイト」もたまに駅まで買いに行って読んでいた。その頃だったかどうか忘れたが、ファイトの記者が、新日プロレスと全日プロレスの会場の違いのことを書いた記事があった。新日の会場の子どもたちは目をギラギラさせて、レスラーの名前を連呼する。全日会場では、これも具体的には思い出せないが、「……………」とヤジを飛ばすと、会場の大人がドッと笑うような、ヤジを飛ばす。なんかアットホームな雰囲気がするというような記事だった。大スポもファイトもほとんどが親日の記事で、ぼくは全日の記事を探して読んでいた。スポーツ新聞の阪神の記事ばかりの中にカープの記事があると熱心に読む今とそんなに変わらない。「1964年のジャイアント馬場」には、紹介したいエピソードが満載だ。その中から今日のエピソード。
一九八八年八月二九日の日本武道館で行われたジャイアント馬場対ラッシャー木村のシングルマッチは、馬場の転機となった。試合は馬場の完勝。特筆すべき内容ではまったくない。事件は試合後に起こった。
ラッシャー木村がマイクをつかむ。次の瞬間、「お前をブっ潰してやる!」といったプロレス的なマイクアピールとはまったく異なる不思議な言葉が、木村の口から発せられた。
「おい馬場!俺はな、これだけお前と戦っていると、お前のことが、とても他人とは思えないんだよ。だから一度でいいから、お前のことをアニキと呼ばせてくれ」
武道館は爆発した。割れんばかりの「ア・ニ・キ」コール
今日は、清志郎を読み終わった。
2月20日(金)
今週は、資生園、皆勤になる。「あの頃、忌野清志郎と」で清志郎の通夜にきた人が、ドライアイスが入った棺の中の清志郎を触って、「今日は冷たいね。けど、明日はアッチッチだからね」と話しかける。誰かが死ぬということは、誰かが残るということかな。そして繋がっている。最近そんなことをよく考える。昨日も、「深夜食堂」を見ながら眠った。やたら同窓会が出てくる。25年ぶりにタイムカプセルを掘り出す場面があった。ぼくも樹雨屋でそんな場面を書いた。雨の日が続く、二十四節気では雨水
雨水 旧正月中 氷雪解け、雨水温むの義。  二月一九日(日)
初侯 土脈潤い起こる(どみゃくうるおいおこる)
次侯 霞始めて靆く(かすみはじめてたなびく)
末校 草木萌え動く(くさきもえうごく) (二十四節気、七十二候 より)
今日のジャイアント馬場のエピソード
馬場と猪木がリングの上で戦うことはなかったが、リングの外では全存在を懸けて戦った。日本のプロレスが巨大なものになった理由は、馬場と猪木というふたりの天才が対立関係にあったからだ。
《私と馬場さんの関係は、わかりやすい対決の構図であって、マスコミの餌食となった。私は、ふたりの緊張関係はプロレスを認知させるための起爆剤になるだろうと考えた。戦略家の馬場さんも、おそらく同じように考えていたのだろう。
私は最後まで馬場さんを挑発したが、馬場さんは挑発にのらなかった。どんな屈辱的なことがあっても防衛にまわって、自分というものを崩さなかった。》(『1964年のジャイアント馬場』「対戦要望者」を突きつけた猪木の思惑から)
2月21日(土
今日のジャイアント馬場のエピソード
天龍源一郎がSWSへ出て行って、それに、グレート・カブキや谷津嘉章、サムソン冬木もついて行った。残ったのはジャンボ鶴田、三沢光晴、川田利明、小橋健太。三沢はリングの上でタイガーマスクの覆面を脱ぎ、ポスト天竜を宣言している危機的な状況の中のエピソード。
一九九〇年六月八日、日本武道館。メインイベントはジャンボ鶴田対三沢光晴のシングルマッチである。この試合の結末を馬場に提言したのも『週間プロレス』のターザン山本だった。
「馬場さん、ここは三沢に勝たせないとダメですよ、と言ったのは僕。普段の試合で勝ち負けまで踏み込むつもりはないけど、全日本プロレスの運命がかかっているから、ここだけは口を出した。
馬場さんは怒ったよ。『お前は三沢に負けろ、鶴田にいうのは誰だと思っているんだ!』って。でも、僕も一歩も退かない。ここで三沢に勝たせなければ『週刊プロレス』は全日本から撤退する覚悟だった。もちろん馬場さんには言わないけど、それだけの覚悟を僕が持っていることは察したはず。馬場さんは頭のいい人だからね。
三沢に負けろと言われた鶴田は、フォール負けとギブアップは勘弁してほしい、せめて場外リングアウトにしてくださいとと抵抗したみたいだけど、結局馬場さんが押し切った」(『1964年のジャイアント馬場』観客の心を揺さぶった三沢の涙)
今日は仕事が休み。ゆっくりしている。YouTubeでジャイアント馬場を見た。あの本を読んでから見るとまた違う。スタンハンセンとの試合、ハリーレースとのアメリカでの試合、本人がいう自分のベストの対戦ジンキニスキーとの対戦。ハンセンはウエスタンラリアット、ハリーレースはフライングヘッドバット、ジンキニスキーは原爆攻撃というフライングニードロップ。特にジンキニスキーとの試合がすごい。すごいスピードで技をかけている。それからハリーレースとの試合は、アメリカで生き生きと動いている。スタンハンとの試合はあの年で、ボディースラムを受けてラリアットを受けている。
2月22日(日)
昨日の夜も、ジャイアント馬場。小堺一機の番組で、水戸黄門の話をする。德光和夫のナレーションで馬場の人生を振り返る。馬場から馬場さんと変わっていく呼び方の転機はテレビのコマーシャルやバラエティーに出演するようになっ頃だろう。
今日のジャイアント馬場のエピソード
再び馬場のロードマネージャーとなったフレッド・アトキンスは、馬場を根本から鍛え直し、ワンランク上のレスラーに押し上げるつもりだった。
ワンランク上とは、たとえばディック・ザ・ブルーザーやキラー・コワルスキー、ジョニー・バレンタインのような超一流悪役レスラーのことだ。
真のアスリートである馬場は、単なる化け物=フリークスではない。レスラーとして大きな可能性を持っている。もしかしたら正式にNWA王者になることも可能かも知れない。そう考えたからこそ、アトキンスは馬場を徹底的に鍛え上げた。
アトキンスとの厳しい練習に比べれば試合は天国だった。(1964年のジャイアント馬場』単なる化け物ではないより)
2月23日(月)
昨日は、大津広報を仕分けして組長さんに配布依頼して、夜は組長会。コジャックでは、竹中労に『美空ひばり』を読み始めた。
今日のジャイアント馬場のエピソード
アメリカで人気が出るのは馬場ではなく鈴木だろう。そう考えたグレート東郷は、馬場より先に鈴木の売り出しを図った。
興味深いのは、馬場自身も東郷に近い考えを持っていたことだ。
《なにしろマンモス(鈴木)と組んでも人気の点からいえば、マンモスが上になるだろう。あいつはまったくプロレスをやるために生まれて来た男だから、ボクのようなデクの棒は、やはりいろいろと豪快な技を研究せねば》(ジャイアント馬場『プロレス&ボクシング』一九六一年八月号)
馬場の率直さと客観性には、いつも本当に驚かされる。
馬場は鈴木のスパーリングにおける弱さを熟知している。しかし、「レスリングで自分より弱い鈴木が、自分より人気があるのは許せない」という種類のジェラシーを、馬場は欠片(かけら)も持ち合わせてはいなかった。レスリングの実力とリングの上の人気にはまったく関係がないことを、賢明なる馬場正平は渡米以前から知り抜いていたのである。(1964年のジャイアント馬場』渡米二戦目の出世試合より)
明日は午後の出勤。松岡満運輸へ。ゆっくり、朝ができるというだけで幸せだと思える。他のことを考えなければ。
2月24日(火)
今日のジャイアント馬場のエピソード
ジャイアント馬場はラッシャー木村、百田光雄らとファミリー軍団を結成、悪徳商会(渕正信、永源遙、大熊元司ら)とギャグ満載の明るく楽しい試合を繰り広げていた。メインを若い者に譲り、休憩前の前座に回ってから、五年以上が経過していた。
しかし、レスラーとしての矜持は胸の奥にしっかりと持っていた。
一九九三年暮れの最強タッグに、馬場はスタン・ハンセンとタッグを組んで出場した。「ハンセンと組んでいたテッド・デビアスがリーグ戦開始直後にケガをして帰国してしまった。だから(ターザン)山本さんと僕が、馬場さんに組んでくださいとお願いしました」(市瀬英俊)
当時最高の人気誇った三沢光晴と小橋健太のタッグチームは、五五歳の馬場を容赦なく攻め立てた。三沢のエルボーや小橋のチョップを拳を握って耐える馬場を、観客は大声援で後押しした。
《僕は馬場さんから『プロレスラーは人間であって人間じゃない。怪物なんだ』と教えられてきました。付き人をしていた時にいきなりチョップを受けたことも、両手に荷物を持っていて身動きできない状態で張り手されたこともありました。あのデカい手で張られればもちろん痛いですけど、『プロレスラーがそんなもんで痛いと言うな!』と、馬場さんから叱られました。
僕が馬場さんと試合ができるようになった時には、逆に馬場さんの胸が真っ赤になるまでチョップしました。一生懸命に試合をすることを教えてくれたのは馬場さんだったからです。プロレスを支えてきた人だとか、年齢とかは関係ありません。そこで僕が手を抜いたら、ファンに嘘をついていることになる。こんな若造に手加減されてしまったら、馬場さんに対しても失礼でしょう。
だから失礼のないようにガンガンやりました》(1964年のジャイアント馬場』胸の奥で失わなかったレスラーとしての矜持より)
何回も書いたように、ずっとぼくはプロレスは八百長じゃないと信じていた。八百長じゃなく、エンターテインメントだと言われても、エンターテインメントは八百長と同じだと思っていた。でもその頃、猪木の延髄切りは八百長だと思っていた。「おかしいやん、当たってないのにフォールされてる」はよく言っていた。この本を読んで、人柄なんだと思う。古典落語と新作落語のように納得して見ていればよかったのだろう。でもそれじゃプロレスはつまらない。プロレスは落語じゃないし映画でもない。小橋健太を育てた馬場の人柄、それに尽きる。
今日は、午後の仕事で松岡満運輸へ。帰ってきてから掃除。掃除は結構きつい。慣れていないから腰が痛くなる。松岡満運輸への往復の時間に色々考えることがあるが、すぐに忘れてしまう。宮沢賢治は足で書けと言った。動いていると、何かが頭に浮かぶ。それを書きとめておけばいいのだが、いいアイディアは忘れてしまう。ワーキングメモリの容量が少なくなってきていると実感する。今日、守山のアブラナが綺麗だった。比良の雪ともマッチしていた。
2月25日(水)
朝からYouTubeの還暦ジャイアント馬場をみた。還暦試合、本当に
ブレーンバスターを受けている。昨日のエピソードのように、リングの上で見くびられたらリングに上がれない恐怖感だけでリングに上がっているというインタビューもあった。武道館が満席。みんなそんな馬場を見に来ている。正直な馬場が好きだという人が集まってきている。結果はわかっている。でも見たい。
今日のジャイアント馬場のエピソード
しかし、一流外国人を迎え撃つジャイアント馬場の全盛期はすでに過ぎていた。すでに三四歳。肉体は急速に衰えていった。
「猪木さんが日本プロレスを出ていった頃、馬場さんの腕はかなり細くなっていた。俺と一緒に腕立て伏せ五〇〇回とか毎日やってましたよ。太さも毎日測っていて、『俺の方が一センチ太いですよ』『何、この野郎』とか比べていたんです』(グレート小鹿)(1964年のジャイアント馬場』全日本プロレスの立ち上げより)
2月26日(木)
学校現場では、卒業の季節。昨日日吉台小学校へ行ってきた。五年生が卒業生を送る会の準備をしていた。雨や曇りの日が続いている。畑のことも気になるが、日曜日は法事がある。土曜日、晴れるといいな。
今日のジャイアント馬場のエピソード
当時新弟子だったグレート小鹿は、馬場のアメリカ遠征中に入門したために、偉大な先輩のファイトを間近に見るのはこの時(キラーコワルスキー戦)が初めて。試合が始まると、小鹿はこれまでに見たこともないプロレスに呆然となった。
「足の使い方、ロープの使い方、フットワーク、試合の流れの作り方。馬場さんは本当に素晴らしかった。力道山先生や豊登さんとは何から何までちがっていたし、合宿所の先輩だった猪木さんと大木さんをふたり足したよりも馬場さんは上だった。
よく馬場さんは後期になって、アポーッって漫才師に真似されたりしたけど、ああいうのは僕らの頭の中にはない。いい時の馬場さんは物凄かった。
あの頃はまだ、ボディスラムや逆エビでお客さんが沸く時代。ところが馬場さんは、あの大きな身体で、大きなコウモリみたいにバーっと飛ぶんだから。ロープの内側は四メートル二〇センチ四方しかないんだから、馬場さんが飛べば半分を占めちゃう。それはびっくりするわな。
大自然の鷲と同じですよ。木に止まっている時には羽を折っている。飛ぶ時にはワーッと全部伸ばすでしょう?あれと一緒です。
試合の流れの中で、どの場面で自分を大きく見せればいいのかを、馬場さんは全部わかっている。大きな鏡の前で研究したんじゃないかな。俺も見たことがあるもの。(1964年のジャイアント馬場』観客を熱狂させたキラー・コワルスキー戦より)
馬場を日本の経済にたとえた人がいる。今日のエピソード、馬場の登場が日本の高度経済成長。馬場の腕が細くなって、アポーッと漫才師ビートたけしに真似されるようになる頃から、日本のバブルがはじける。
2月27日(金)
今日と明日で2月が終わる。終わった2月はどこへ行くのだろう。2月が終わって、ぼくは3月に駒を進める訳だが、2月のぼくはもう終わってしまうだけなのかとふと思ってしまう。ちょっと、精神的には不安定なのだろう。
今日のジャイアント馬場のエピソード
馬場正平の身長が急激に伸び始めたのは、小学校の五年生になった春のことだった。
両親は心配して医者に診せたが、身体に異常はなく、学校の成績も普通だし、心配ないと言われて安心した。
一九三八(昭和一三)年一月二三日、雪の深い日に、四人きょうだいの末っ子として生まれた男児は、体重七五〇匁(二.八キログラム)とごく普通の体つき。「正しく、素直に、平和に伸び伸びと育ってほしい」という願いをこめて”正平”と名づけられた。
両親は新潟県三条市で八百屋を営み、正平少年は姉ふたりにあやされつつ、のんびりと優しい子に育った。
馬場家を悲劇が襲ったのは、正平が六歳の時だった。
ガダルカナルに自動車部隊の一員として配属されていた兄の正一が戦死したのである。
一片の公報が届いただけで、遺骨も遺品も何ひとつ戻ってはこなかった。
書道の全国大会で賞をもらったこともある優秀な長男に、両親は大きな期待をかけていたから、その分嘆きも大きかった。
正平も涙に暮れたが、やがて兄が大切にしていた絵の具箱を見つけて、熱心に果物や野菜の絵を描くようになった。(1964年のジャイアント馬場』最後列で膝を折り曲げて撮られた集合写真より)
2月28日(土)
今日のジャイアント馬場のエピソード
三条市立第一中学校の中学校の入学式では、周囲の好奇の目が正平を包んだ。
すでに身長が一八〇センチを超えていたからだ。
着物は二反を使って作らなければならず、靴は次々に履き替えたが、やがて三条の靴屋に置いてある一番大きな一二文の靴が入らなくなった。
仕方なく特製の下駄を履いたが、夏は裸足の事も多かった。
靴を履いていないことは、正平の大きなコンプレックスとなった。
そんな時、近くの政友会というキリスト教(モルモン教)の教会のラングバート宣教師が靴をくれた。靴の上に履くいわゆるオーバーシューズだったが、正平にはぴったりだった。
このことがきっかけで正平は宣教師と親しくなり、愛と平和を説く言葉に心打たれて入信を決意する。
一九五二年のクリスマス。正平は五十嵐川に全身を浸して洗礼を受けた。
モルモン教ではアルコール、タバコ、カフェインを禁じているから、以後、小平は茶を断ち、日曜日には熱心に教会に通うようになった。
野球でも相撲でもバスケットボールでも、さらには水泳でも卓球でも正平は誰にも負けなかった。卓球や水泳においては、体格差はさほど重要ではない。馬場正平はただの巨漢ではなく、運動神経抜群の万能選手だったのだ。( 1964年のジャイアント馬場』最後列で膝を折り曲げて撮られた集合写真より)
ジャイアント馬場のエピソードは今日で11回、来週いっぱいはは続けて、終わりにするかどうかを考える。
思えば、このブログを書き始めてから、何人もの有名人が死んでいった。ブログを書き始めていたかどうかわからないが、このiPadで藤圭子の事を書いた。藤圭子の曲を3曲このiPadで購入した。「圭子の夢は夜開く」「女のブルース」「京都から博多まで」。高倉健が死んだときは、テレビドラマの「兄貴」を見ていた頃を思い出して、島田正吾と高倉健の絡みのことを書いた。その時、島田正吾を尾上松緑と間違ったかもしれない。死んでいった人たちは生きている人たちに、生きていた時のことを追憶させるのか?生きているものが追憶して、追憶させると思うのか?ソクラテスが「ただ単に生きるのでなく、善く生きる」と言った言葉。藤圭子も高倉健もジャイアント馬場も吉本隆明も宮沢賢治も善く生きた人なんだと自分は認識しているのだろう。だから、取り上げているのだろうと考えている。この5人の中で実際に目にしたのは2人。吉本隆明は山口市まで、オートバイに乗って講演を聞きにいった。ジャイアント馬場は皇子山体育館と草津の体育館でガウン姿で座っているのを見た。

3月1日(日)
今日は10時半から、親戚の一周忌がある。お寺に年忌の予定の紙が貼り出してあるのだが、今年だけで8軒の法事がある。その1が今日ある。時間があまりないので、いきなりエピソードへ行くが、勘違いを訂正しておく。この前、YouTubeのジャイアント馬場物語のところで司会者の名前をウツミさんといったような気がする。正しくhq逸見政孝さん。「クイズ世界はSHOW by ショーバイ」の司会者。昨日の島田正吾もそうだが、思い込んで記憶しているから間違いがいっぱいあるかもしれない。そこで馬場物語から
今日のジャイアント馬場のエピソード
井上源太郎さん、通称源さん。ジャイアント馬場の靴を磨いて25年という人が「馬場さんの靴は手袋を左手に三枚重ねて靴に突っ込むと、押さえがきくんですよね。このア・テストー二というのはイタリアで一番いい方の靴ですね。いい靴だけに、余計丁寧にいい仕事したいですよね」と言うと、ジャイアント馬場が源さんの事を話す。「源さんがね、これはいい靴ですねとか、いい皮ですね。とかそんな言い方をするんだよね、そうするとね、靴の良さを源さんがわかってくれるでしょう、なんか自分がこの靴を作ったことが良かったというようなね。誰に認められなくても、源さんがそう言ってくれると嬉しくなっちゃってね」こんな会話の後、馬場さんのイメージは足、みんなが16文の足に注目するんだと源さんが言って、ジャイアント馬場が、靴で苦労したことを語って、死ぬまでに履けるだけの靴を作っているという。(日本テレビ制作「ジャイアント馬場物語」より)
「 我思う、ゆえに我あり」デカルトの言葉である。ジャイアント馬場のことを考えている自分の中に、死んでしまって、今は肉体が存在しないジャイアント馬場がいる。今日の法事の時に考えていた。「我死者を思う、ゆえに死者我と共に、我とある」。友だちと死んだらどうなると話をすることがある。小さい頃から会話にそんなことがよく話題になっていた。死んだらどうなるかどうか、死んだ人にしかわからないし、死んだ人からは話も聞くことはできない。でも死んだ人のことは生きている人が考える。その時、死んだ人も生きている人と共にある。生きている人は死んだ人のことを忘れることはできない。「我思う、ゆえに我あり」哲学の分野では色々と批判もあるみたいだが、日常的には納得の言葉だろう。死んでしまったら我はいないのだし、死んだ後に、自分を知っている人がその人なりに自分のことを考えてくれた時に、自分はこの世に残っているんだと、今生きている自分は、死んでからの自分の立場を考える。父親が「哲学は勉強するな」と言っていた。「哲学を勉強すると自殺をしたくなる」でもそれは間違った風に伝えられていたのだろう。藤村操という人が華厳の滝に身を投げた。「巌頭之感」を残して、「悠々たる哉天壌/遼々たる哉古今/五尺の小躯を以って此大をはからむとす/ホレーショの哲学竟に何等のオーソレチィーを價するものぞ/万有の真相は唯だ一言にしてつくす/曰く不可解/我この恨を懐いて煩悶/終に死を決するに至る/既に巌頭に立つに及んで/胸中何等の不安あるなし/始めて知る\大いなる悲観は/大いなる楽観に一致するを」哲学は善をなす為にある。哲学という言葉にニヒリズムを植えつけたのは日本だけなのだろうか。
3月2日(月)
今日もあまり時間がないのでジャイアント馬場のエピソードも簡単に
ビンス・マクマホン・シニアは「週刊ファイト」の井上譲二編集長によるインタビューの中で、馬場の身体能力を絶賛している。
《ババはただの巨人レスラーじゃない。仮にババがデクの坊だったら、レスリングの技術を身につけていなければ通用しない六〇年代にトップを取れなかっただろう。私がババをメインに起用したのはレスラーとしての力量を認めていたからなんだ。だから、馬場の身長があと二〇センチ低くても同じように扱っていただろうね。》(『馬場本』)(『1964年のジャイアント馬場』馬場とサンマルチノ友情物語の虚実」より)
3月3日(火)
起きたのは8時なんか疲れている。
今日は、ジャイアント馬場のエピソードは番外編
デストロイヤーがテレビの番組(YouTubeの金曜夜八時)でインタビューに答えている。力道山との死闘を振り返って、前歯が折れた。鼻の骨が折れた。と話していたデストロイヤー。デストロイヤーが初来日した頃は、1ドルが360円、タクシーの初乗りが60円どこまでも乗れたけど、今は1ドル100円初乗り600円、初乗りだけで6ドルだという。(日本テレビ金曜の夜は…より)
3月4日(水)
ちょっと辛いが、朝のうちにジャイアント馬場を書かなければという気持ちがある。探して書いていると仕事に行く時間になってしまって、急いで出かけているのが現状だ。
今日のジャイアント馬場のエピソード
「阪神大震災の時(一九九五年一月)、元子さんの明石の実家が半壊したんです。
馬場さんと僕たち(仲田、和田京平ら)は、荷物を運び出す作業を手伝いに行った。すると馬場さんが『みんなは大丈夫なのか?』と言い出した。みんなとは、全日本のファンクラブ『キングスロード』の会員のことです。ファックスで兵庫県の会員名簿を取り寄せて、馬場さん自身が『だいじょうぶですか?』と電話をかけた。《大丈夫じゃない』
という家が一〇軒くらいあったので、水や果物を持って訪ね歩いた。応対に出た人は、馬場さんを見た途端に感激して泣き崩れていました。
被害の大きかった仁川の教会に行った時のことは忘れられません。会員の家が全壊していて、近所の教会に避難していたんですけど、たまたま馬場さんが電話をかけた時にかたづけにきていて電話に出た。
教会に着くと、馬場さんは『子供だけを呼んでこい』と言った。子供を呼ぶとお母さんも一緒にきて『いま、牧師さんにきてもらいますから、ちょっと待っていてください』と言った。『いや、この子の元気な顔が見られたから、もういい』って、そのまま帰ったんです。
馬場さんは、そのことを誰にも言わなかった。僕にとっての馬場さんは、地上に降りてきた神様みたいな人でした」(仲田龍)(『1964年のジャイアント馬場』馬場さんは神様みたいな人でしたより)
3月5日(木)
昨日、資生園では、菌床の廃棄の仕事をした。棚から芽の着いていない菌床を一輪車で幌付きトラックに積み込み田圃まで持っていく。菌床は田んぼの肥やしになるそうだ。畑も菌床をまいている。サイクルができれば無駄が省ける。エコにつながる。土に帰す。そんなことがあらゆるところで昔はやっていた。人類の個体数の増加と生活の向上がそれを不可能にしたのか。今日はなんでこんなことを書いているのだろう。日吉台小学校の菌床とうちの菌床が今ハウスの中で再生中。湿度が足らないところに置いていたため、中まで乾いてしまった。再生できるかどうかわからないが、今再生中だ。
今日のジャイアント馬場のエピソード
長州と天龍の試合が白熱する中、四七歳のジャイアント馬場はタイトル戦線から離脱していく。
一九八五年七月三〇日、福岡スポーツセンター。スタン・ハンセンに敗れた馬場はPWFヘビー級王座を失い、以後二度とベルトを腰に巻くことはなかった。
スタン・ハンセンによれば、馬場が鶴田、天龍の二人をトップに据える方向に転換したのは、この時期だったという。鶴田はすでに三四歳、天龍は三五歳になっていた
《馬場は一度、私を食事に誘って方針転換をていねいに説明してくれたことがある。馬場がそれに気づいてくれたことは私にとって嬉しかった。》(『1964年のジャイアント馬場』ゴールデンタイムへの復帰より)
3月6日(金)
昨日は朝雪がちらついていたが春に向かっている。今日は啓蟄。昨日梅の花が咲いていた。
今日と明日でジャイアント馬場はひとまず終わることにする。
今日のジャイアント馬場のエピソード
一九六四年三月二七日、サンディエゴ・コロシアムでフレッド・ブラッシーとの最後の試合を戦った後、ジャイアント馬場は定宿にしていたクラーク・ホテルでアントニオ猪木に会った。猪木はハワイからアメリカに到着したばかり。これから武者修行に出るところだった。
「寛ちゃん、これを持って行け。俺はもう使わないから」
馬場が猪木のポケットにねじ込んだのは七〇〇ドル(現在の貨幣価値で約一四〇万円)あまりの札束だった。後年、猪木は「あれは涙が出るほどうれしかった」と語っている。
馬場にとって、五歳年下の猪木は可愛い弟分だったのだ。(『1964年のジャイアント馬場』到着した羽田から国技館に直行より)
3月7日(土)
資生園で再生している椎茸の菌床から芽が出てきた。もう少し育ってから持って帰ろうと思う。
『1964年のジャイアント馬場』から、ジャイアント馬場のことを紹介してきた。コメントや説明も付けずに。今日は、巨人軍を去って、大洋ホエールズに移籍した時、練習が休みの日に朝風呂に入った。その時に立ちくらみがして転倒。ガラス戸に突っ込んでしまった時のエピソード。
今日のジャイアント馬場のエピソード
《ガシャーンというもの凄い音でした。すぐに誰かがひっくり返ったんだとわかりました。左ヒジも切れていたのかな。それこそ血だらけでしたよ。ガラス戸は粉々になっていましたから。救急車を呼び、数人がかりで馬場さんを運びました。意識はあったみたいですが、とても話しかけられる雰囲気ではなかったですね。》(当時ルーキーだった近藤昭仁『文藝春秋』二〇一二年三月号)
《救急車に運ばれ、何か身体中がだるくなってめをつぶりかけると、救急隊員に『眠っちゃダメだ!』と頬を叩かれた。湯上りだからかなり出血多量だったらしい。》(ジャイアント馬場『王道十六文』)
電報を受け取った母親ミツが、新潟県三条市から兵庫県明石市まで息急き切って駆けつけると、大事な息子は左腕から肩にかけて二〇数針を縫う重傷を負っていた。
《正平は体中包帯を巻いて大きな体をベッドに横たえていました。しかし、私が行くと元気な声でこう言いました。『心配しないでくれ。今までの僕は不運すぎた。僕が東京の田園調布の教会にいったとき、神父さんが、どんな不運でも最後のチャンスは必ずくる。それを逃がさないことが神様を信じていれば必ずできる』と言っていました。父さんに心配するな、とくれぐれもーー。》(馬場ミツ『プロレス&ボクシング』一九六三年四月号)(『1964年のジャイアント馬場』失意のプロ野球引退より)

3月8日(日)
図書館へ行っていない。今週は、図書館へ行ってノートの整理をしよう。今日は午前中に龍神祭があって、夕方4時から会計監査の事前監査があるのでその間にいけるかもしれない。
コジャックで大江健三郎を一時間ほど読んで、図書館へ2時間ほど行って、ノートをみた。
3月9日(月)
今日は大津広報の仕分けをしなければならない。資生園へちょっと遅れるという連絡をしなければならない。
何年か前は、日の出や朝の月の出を小説で使おうと早起きして見に行っていた。月は太陽との位置関係で見え方が変わる。昨日整理していたノートに、英語と日本語の月の使い方に違いがあるというようなことを書いていた。「ムーンシーン」月の明かり禁酒時代に密造酒の意味で使われていた。内職をすることや愛人を持つことを「ムーンライト」といったとか「ハネムーン」とは幸せの絶頂にあるが、やがて月が欠けていくとともに愛が冷めていくという暗示が示されている。とか一生懸命調べていた。「ムーンボー」月の虹が出るのは、空が暗くて、月が明るく位置も低い時に雨が降らないと見られないとか、英語は洒落ている。日本語では「天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に漕ぎ隠る」(柿本人麻呂)とかもノートしてあった。完全に頭の中には残っていなかったがノートには残っていた。光風斎月(こうふうさいげつ)斎の字が違うが見つからないのでこのまま書いておく。雨が上がった空に照る月のことだ。
後方の仕分けが終わるとホッとする。今日は組長さんに一年間ありがとうございました。と挨拶をして回った。くみちょうさんの仕事が大変だったのだと思う。本当にご苦労さんでした。今日はジムも図書館も休み。明日からノートの整理だ。
3月10日(火)
今日もすっきりしない空だ。今日もノートの整理をする予定。
できなかった。日吉台小学校へ椎茸の再生された菌床を持っていった。結構喜んでもらえた。
3月11日(水)
4年前はまだ下阪本の小学校にいた。校内放送が入って、地震のお知らせ。なんかずっと静かに震えている感じで、長く長くカタカタ音がしていた。不気味な感じだった。子どもたちが下校して、事務室でテレビの画面を見たときは信じられなかった。現実の映像として納得するまでに時間がかかった。その場所の現実に頭を切り替えるのに時間がかかった。本宮ひろ志のマンガで津波の場面があった。自分の体を20メートルほどの大木の上にくくりつけて津波をやり過ごす。こんなことは日本ではないものだと思っていたが、そんな一過性のものではなかった。津波は海水が流れてきてまた戻っていく。そんなものではなかった。サラサラとした液体ではない。もっと質量があって、根こそぎ削っていく感じだった。道路、橋、家全部運んでいく。燃えているもは燃えたまま運んでいく。人間の作ったものを、原発にしたって、想定外だというが、そんな人間の想定を無視して破壊する。それも自然。自然のことを想定したって想定できるものではない。
3月12日(木)
良かった。昨日の夜無くなった「2015・3②」がゴミ箱に入っていたので復元できた。北大津養護学校の卒業式が明日ある。明日は仕事を休んで、参加しようと思う。今日メッセージを届ける。
堅田の文房具屋の「さいとう」で色紙を買って、メッセージを書いて北大津養護学校へ届けた。明日寄せてもらいたい意思も伝えた。Kは一人で頑張った。小学校を卒業するときは、養護学校へ行くのが嫌で抵抗していた。そして三年が過ぎた。
3月13日(金)
大江健三郎の作品は入ってしまうとどんどん進む。入るまでに時間はかかる。新刊が出ると買っておいて、だいたい2ヶ月から三ヶ月後に読み始めている。⒊11の話題が出てくる。福島の原発事故、大江らしいとらえ方で話が進む。姜尚中の「いのち」も途中だが、これも⒊11。⒊11といえば、ぼくは「あまちゃん」の展開をハラハラしながら視ていた。あれももう何年か前の話になってしまった。でも、ぼくは書けない。⒊11を書けない。どう書いていいのか想像もつかない。
3月14日(土)
昨日、北大津養護学校の卒業式に行ってきた。今日は日吉中の卒業式。時間がないので、感想は後ほど。

3月15日(日)
昨日は日吉中の卒業式。朝、雪が混じった雨が降っている。雄琴駅のコイン駐車場へ車を止めて叡山坂本駅へ。駅で降りて中学生や保護者と一緒に学校へ向かう。日吉中は体育館と教室棟の間に里道が通っている。教室の窓が開いていて、そちらを見るとI。
「おっ、おはよう」
人なつっこい笑顔、小学生の頃から変わっていない。
「タバコ吸って、来んなよ」
悪たれグチもかわっていない。
オメデトウと言うと笑っていた。窓から見える教室には何人かの知ってる顔もある。体育館の受付に保護者の行列ができていた。里道を突き抜けて、傘をさしたままで新しいタバコに火をつけるとM君がやってきた。僕に挨拶をして昇降口へ入っていった。で咲花と出会う。体育館の行列がなくなっていたので体育館へ入る。会場は湖国の四季、やペガサスの飾りがあった。
昨日のTの卒業式。会場の体育館に入ると、保護者席も、児童席も結構詰まっていた。パイプ椅子に腰かけて、知っている人をさがしていると、Mちゃんが入ってきた。近づいて声をかけると、びっくりした顔をして、目をそらす。また声をかける、こちらの顔をじっと見て、また目をそらす。いつもと同じだ。席に戻って前方をみると、Kが卒業生の前列に座っていた。足がせわしなく動いていた。緊張した時の癖だ。姿勢正しくを心がけていたのか、気を付けの姿勢というか背筋を伸ばす動作を時々している。
日吉中と北大津養護学校を比べているわけではないが、違っていいのかわからないが、なんとなく違う。北大津養護学校は会場に入るまではひっそりしていて、会場に入ると、賑やかだった。どこで卒業式が行われるのかわからないくらい、教室や廊下が落ちついていた。
日吉中の体育館で、通路脇の席についてiPadを取り出して会場の写真を撮って、ワープロを開き、昨日のことを書き出した。このブログの下書きを始めた。昨日の卒業式は小学部と中学部。小学部の思い出の発表が絵本形式で行われ、中学部はスポットライトと作文。色んな工夫がある。自分が現役の頃、卒業式に向けて取り組んだりしたことを思い出していた。歌を作ったことや、火の鳥と卵のステージ、職員会議での論争……。Kはあくびを繰り返していた。スポットライトを当てられて作文を読んだ。気をつけと礼をかなり意識していた。
日吉中の体育館は保護者席もつまり、在校生も入り、来賓も入って、卒業生入場が入場してきた。卒業生は誰も僕に気がつかない。開会の言葉、国歌、校歌、証書授与と流れていく。国歌斉唱のとき、北大津養護では
「立てる人は立ってください」というアナウンスがあった。君が代に対してのアナウンスなのか車椅子に対するものなのか分からなかったが、僕は君が代をイメージしていた。日吉中の証書授与の一人目は15642号。北大津は三百何号。北大津養護はフロアー、日吉中では壇上で授与され、その様子がスクリーンに映し出される。スクリーンを見ていると、懐かしい名前が耳に入ってくる。いたいた、小学生の頃のイメージが浮かぶ。N、Y、A、H、Y、F………。証書は一人目以外は名前だけ呼ばれていたのが、突然全文が読まれだした。会場もびっくりしている。「3月14日生まれ」パフォーマンスだ「誕生日オメデトウ」と学校長が言うと会場は拍手が起こった。3月14日生まれの卒業生は二人いた、一人目は虚を疲れて拍手した人も二人目は特別扱いへの不満を口にしていた人もいた。
教育委員会、市長、市議会議長、祝辞が続く。北大津は掲示。いらない。記念品授与。在校生、卒業生の言葉と歌、そして蛍の光、閉式。つづく。
3月16日(月)
卒業生退場、卒業生は担任に何か言って会場を担任と一緒に出て行く。クラスのパフォーマンスだ。歌を歌うクラスもある。感謝の言葉をちょっと乱暴に、面白く言う。「早く結婚しろよ」とか、「迷惑かけたけど、ありがとう」とか、子どもらが相談したのだろう。
北大津養護では、「卒業生を送る花道を作りましょう」というアナウンスがあって、在校生、職員、保護者、一般が人の花道を作る。僕もKに声をかけようと花道に行った。そしたら、後ろからぶつかられた、Mちゃんだ。Mちゃんはチラっとこちらを見て俯く。懐かしい仕草。Kのお母さんにも声をかけられて二人でおしゃべりをしながら並んでいると、向こう側のKyちゃんと目があった。手をあげると手を上げて答えてくれた。最後には高等部のMくんにも出会った。
日吉はパフォーマンスの後担任の先導で退場。女の子たちはほとんどが泣いている。体育館を出たクラスがどっと歓声を上げる。次のクラスのパフォーマンスが始まる。8クラスの退場が終わって、「保護者の方はお残りください」というアナウンスががあったので、会場を出た。メッセージをT先生に頼んでいたので読みに行った。沢山のメッセージが貼り出されていた。そのまま帰ろうとしたら、H君の家族と出会った。話をしていたら、知っている先生がいたので声をかけると、特別支援教室まで連れて行ってくれた。そこで卒業生が交流学級から帰ってくるのを一時間以上待って、その間に保護者もきた。懐かしい。みんなが帰ってきて、在校生も揃って、一人だけ次のパフォーマンスに出かけたが、お別れと写真撮影。担任の言葉でとプレゼントわたしで何人も号泣だ。電車に乗ったのは2時を過ぎていた。しかも、乗ったのが新快速で堅田まで行って雄琴へ引き返してきたというおまけ付き。その頃は雨も上がって青空が広がっていた。
伝統なのだろうか、一部の人間が、卒業式後に着替えて盛り上がる。僕は初めて見たが黄色や青の特攻服に着替えて何か楽しそうだった。その話を今日の休憩時間にYさんと話をした。「飯田さんの時もそんなんでしたか?」と聞かれたので、「堅中ではそんな事はなかった」と答えて、「気持ちはわかる」というところで落ち着いた。願わくば、成人式の日には大人の振る舞いをして欲しいという願いだ。
3月17日(火)
昨日は、椎茸が蘇ったというメールがあった。カチカチになった椎茸の菌床を二日ぐらい重しをして、水につけてからハウスの中においていたら新しい芽が出てきた。
3月18日(水)
今日こそたまっている仕事を片付けて、図書館へ行こう。青空物語の第1巻もアイライターにコピーした。
この後、友だちから電話があり、同級生の訃報が届いた。今は何も言えない。今日言う言葉はただの感傷としか思えない。人は知人が死ぬと、どう言っていいのかわからない状態になる。今日1日そんな感じだった。
3月19日(木)
大きい桜の木には花は咲いていないが、ふとこんなところに桜の木があったのか、というようなところでは咲いている。今日、大津市の小学校の卒業式だった。下阪本小学校へ行ってきた。それこそ、懐かしい子どもらが証書をもらっている。この子供たちが三年生を終えた時にこの学校を退職した。この子たちに下阪本を送り出してもらって、教師生活を全うした。そして三年経って送り出す現場へ行った。今回、養護学校、中学校と続けて卒業式に出たので、子どもが非常に可愛らしく見えた。入学してきた時と一緒だった。青空の五人に書いた手紙も入学したての思い出が頭に浮かんだのでそのまま書いた。この職業を選んだわけではないが、この職業についての幸せは充分味わった。四月になったら、また入学を見てみたい気分になった。ありがとう。サヨナラはいつまでも言えません。
3月20日(金)
昨日の卒業式は、また雨だった。綺麗に教室が飾られていて、子どもたちは交流学級へ。ぼくはiPadに下書きしておいた手紙を便箋に清書していると入場時間になり、途中で体育館へ。体育館の装飾はいつもと変わらない。教育委員会と市長と市議会議長のメッセージは本当に省いてもいいと思った。ほとんど同じ内容。来賓紹介を中学校は簡略化していたが小学校はそのままだった。最後に回すのもいいのではないかと思った。流れを統一しないとストレスがたまる。ここでも一人一人を画面で見ていると何人かの子どもたちとの関わりが蘇ってくる。傍観者は気楽だ。混乱もなく式が終わり、保健室で清書の続きを書かせてもらった。保健室は暖かかった。五年生の男の子が1人、椅子に座っていた。「五年生の合奏うまくいきましたか?」と尋ねてきた。「うん、上手だった」と答えた。えらいもんだ。気分が悪くて保健室へ行ったが自分の役目を心配していたのだ。また清書を続けたが、パレードに間に合わないので、また中断してパレードへ。だいぶ待ってから卒業生がやってきた。そして、青空の子どもや保護者と写真を撮る。青空の教室へはもう戻らないというので、急いで手紙を清書して子どもたちに渡した。
去年もそうだったが、今年も「森田屋」へ行くつもりで車で送ってもらったので5時間ほどをどう潰すか。パルコで映画、パルコで時間を調べたがあまり見たい映画もなく、見たい順に並べると上映時間が合わないので、シルバー料金だからとりあえず待ち時間のない「ベイマックス」の券を買った。しかし、見てみると面白かった。映画が終わってもまだ時間があるので浜大津までぶらぶらと歩いて、京阪電車で近江神宮前まで、それから二時間ほど飲んで帰った。同級生の死、3つの卒業式。畑や田んぼのこと、頭の中はちょっと淀んでいる。今日この頃。
3月21日(土)
昨日の夜は、同級生のお通夜に行ってきた。もう、何も心配しなくていいんだよ。色んな事を考えて生きていくことに悩まなくてもいいんだよ。楽になれたんだ。そんなことを考えていた。ブログを書き始めたころ、梅原猛の『仏教の思想』の文章を引用して、死と生について考えていた頃があった。それから、プラトンのソクラテス三部作や法華経上、中、下や吉本隆明マチウ書試論を読み始めたり、三木成夫生命とリズムを買い込んで読み始めた。
同級生の死、しかも、自死や事故でない死、自分自身の死をイメージしてしまう。ソクラテスや釈迦のように、これで楽になれる。苦行から解放される、人のことを心配することも、人にどう思われるのだろうとか考えてしまうこともしなくても良い。ソクラテスみたいに向こうの世界へ行って、先人の魂と交感すれば良い。でも、そんなことを考えるのも生を引きずっている考え方のような気がするし。それは、生きている者から死んだ者へ語りかける分には許されていいのかもしれない。
もう、何も心配しなくていいんだよ。色んな事を考えて生きていくことに悩まなくてもいいんだよ。楽になれたんだ。向こうへ行って、好きだった高倉健や菅原文太と交感して、ついでに忌野清志郎とも交感してきてくれ。そしてまた、その様子を夢の中で知らせてもらえれば嬉しい。ぼくが生きている間はマサミも生きている。ぼくが死ぬまで生きている。

3月22日(日)
昨日は告別式。浄土真宗でも告別式ではお説教がない。朝にブログを書いて、昼前に出かけた。お寺での告別式は、ホールでの告別式と雰囲気が違う。春分の日、朝はウグイスが泣いている。穏やかな日。薄い色のスターレットで毎日決まった時間に家の前を通っていた病前。タバコをくわえて運転しながら、目が合うとニヤッと笑う。家が火事になった時に見舞いに来てくれた日、プレハブで冷酒を二人で飲んだ。酔うまで飲んだ。酒とタバコが好きだった。比叡山高校で生徒会長をやっていた。高校生の頃は湖西線の前身江若鉄道の雄琴駅と日吉駅で顔を合わせた。中学の時は同じ柔道部だった。小学校の頃は、ビー玉メンコ、魚つかみ、カブト虫採りにいつも行っていた。近所で遊んでいた仲間、柔道部だった仲間、高校に通っていた仲間。昨日の通夜も合わせて、みんなで見送った。誰かがぼくに「タバコを入れてやれ」と言ったので、お別れの時に花と一緒にアメリカンスピリットの黄色いパッケージのタバコを自分が吸う4本だけ取り出して棺の中に入れた。棺の中には家族から二箱のタバコを入れてもらっていたので、その横に、「これもうまいぞ」と言って黄色のアメリカンスピリットを置いた。一連の卒業式の参加とよく似た感覚だった。突然の事故でもなく、長い10数年の病気との付き合い。酸素ボンベが離せず、外出もできない生活からの卒業。好きな酒やタバコを諦めての生活からの卒業。喋るのが好きだった彼のところへ、喋りに行かなかった事を後悔しているが、今は叶わない。
今日は、中国の人からコメントをもらった。嬉しかった。ちょっとづつしか書けないが、毎日少しづつでも書き続けようと思った。
3月23日(月);
今日は資生園。昨日、固くなった菌床を回収してきたので持って行って再生してもらうつもり。
3月24日(火)
朝起きると、屋根の上が白い。そういえば昨日のテレビで雪の予報を言っていた。昨日のテレビの話題でオウム真理教の教材を使って、今イギリスで、イスラム国に行こうとする若者を知る、勉強会というか、そんなものをしているというニュースが流れていた。日本人が作ったオウムのドキュメンタリー映画を見て、監督の話を聞いたり質問したり。村上春樹の『アンダーグラウンド』を読んだのは何年まえだったろうか。『アンダーグラウンド』はサリン事件の被害者のインタビュー。よかったというか、テレビ、雑誌、新聞で知らされてる事とちょっと違った角度で、サリン事件のことを知ることができた。そして続編というかオウム関係者のインタビュー『約束された場所で』を読んだ。必然的にここに繋がるんだろう。麻原彰晃という人物の魅力を語る人々。これも新聞、雑誌、テレビでは出てこない麻原彰晃という人物の姿。僕らの年代は、時々、プロレスやマンガや文学で延々と話すことがある。宗教の話題もそれに近い。知っていること全部思い出しながら話し、相手の知っていること全部を聞く。オウム真理教の麻原彰晃は教師としては一流の技術を持っていたのだ。語ってくる人物の気持ちがわかる。悩んでいる事もわかるし、それに対する対応にも相手は十分納得する。麻原彰晃と出会わなかって助かった人がいっぱいいるのだろう。出会っていたら、いつの間にかあの事件の加害者の仲間になっていた人間が。

3月25日(水)
今日は、仰木支所で1時から青少年育成会議の会議。
昨日は日吉台小学校へ行ってきた。子どもはいなかった。年度末の雰囲気があった。教室や職員室の整理、人事が動くもっとも落ち着かない時期。校長室でしばらく話をしていた。話題が新設当時のことになって、壁の写真を見ると遊具で遊ぶ写真。タイヤや電柱で作った第4期の卒業生が作った卒業制作。夏の暑い日に、実家が鉄工所をやっているN先生にトラック(4トン半)を持ってきてもらって、関西電力の廃材置き場に電柱をもらいに行ったし、栗東のタイヤ置き場へ行って、4トン半のトラックに2個しか積めないような、大型特殊のタイヤももらいに行った。そのタイヤを使って理科のテコの授業をやったし、チェーブロックやワイヤーを使った重いものを人の力で動かす道具で実際にその超特大のタイヤを動かしたりもした。発泡スチロールをグリセリンで溶かして塗料にもした。これは保護者で京大勤務のお父さんに教えてもらった。その写真に写っているのはGさんとMさんに似ているというと、六年生じゃないだろう。もっと下の学年だろうと校長が言う。よくわからなかった。
そしてもう一週間もすれば学校は、新しく始まる。憂鬱なハラハラする時期を置き去りにして。
今日から、固定ページでシイタケ日記を始めようと思う。シイタケ栽培のリニューアル。
3月26日
気にしてはいけないと思いながら気にしてしまう。ホームページの閲覧数のカウントを気にしてしまう。ホームページの製作者のK君がグーグル検索に引っかかるようにしてくれて、昨日は88も閲覧数があった。ニンマリして数字を眺めて、昨日の夜から「シイタケ日記」を書き始めた。夜に書き上げられず。朝も書いた。励みになっている。
今日は午後から資生園へ行って栗東までぷらだんを運ぶ。午前中は大津広報の仕分け。
仕分けも無事終わり、シイタケ日記も書いて、今日は寝ます。寝る前に、何日か前にGYAOで「八日目の蝉」を見て
薫の香川弁の可愛さが耳の残っている。今日、娘とご飯を食べているときにその話をした。子役や動物が出てくる映画では泣いてしまうが、お前とお兄ちゃんと暮らしてきて、映画のようにどちらかが泣かしたことは一度もないけど、それが普通なのかなという話。初めてのお使いみたいなイベントに参加していればそんな場面があったかもしれないという娘の意見に納得。映画だから許される。子役と動物。もう一つはヤクザの純情。
3月27日(金)
もう金曜日か。昨日書店から電話があった。吉本隆明の全集の配本。今日取りに行かなければ。今回は「言語にとって美とはなにか」。何年か前、下阪小で研究授業をするときに、文庫本で買って読んだ。全部は読めなかった。三浦つとむ「日本語はどういう言語か」と大野晋の「日本語**」を買って勉強したことがある。どちらかというと三浦つとむの方が授業を作るときに役に立った。大野晋の「が」と「は」の特徴を読んで、子どもたちに真ん中に四角が5個並んだ紙を渡し、がとはを指示して書かせる。そして3分ほどで文を作る。結構その子の言語の特徴がわかったような。文法の学習ではない。どちらかというと、イメージを広げて行くことができる。3分経ったら、みんなが書いた文を読み上げる。照れたり、笑ったりして、もう一回やろうということになる。人の文を聞く、あるいは読むということが一人一人の想像力を高めていくのだろう。ちょっとみんながイライラしているときに。その学習をやると効果的だった。机を合わせその周りに一人一人が黒のマーカーを持って座る。紙を配って、一つ目はが、二つ目もがとか言うと四角の中に書き込んでいく。うまくかけない子には教師がついている。四角の前に人の名前をばかり書く子、お父さんやお母さん。家族のことばかり書く子。最初は一人一人の特徴が現れる。マンネリ化してくるとお題を出す。ガラスというお題を出すと。ガラスが割れた。とかガラスは音がする。とかの文を作る。始めると、一時間はすぐにたってしまう。そんなことを思い出した。授業を考えるのが面白かったなと思う。しばらく授業のことを書こうかな。
3月28日(土)
朝から、青空物語を書いていた。中学一年生のの時に友だちと一緒にSFにはまっていた時期があった。覚えているのは「海底二万マイル」「地球最後の日」「失われた世界」今、平和堂に入っているフソウという書店がまだ商店街にあったころ、そこで買って回し読みをしていた。ノーチラス号の巨大イカや地球に接近してくる地球と同じ大きさの星。探検家が空を見ると信じられないプテラノドンが飛んでいる。人が想像するって、それを作品するって、それを読むってそんな連鎖でまた想像し作品を作り、それを読む人がいる。
話は戻るが、青空物語を書いていて惑星直列をネットで調べていたら、関連記事で2015年間1月5日に無重力が拡散するという記事があった。何も起こらなかった。誰もが同じようなことを考えるんだなと思った。このまま、この設定で「星の一生」を書いていっていいのだろうか。今更取り消せない。なんとかやってみよう。

3月29日(日)
昨日、琵琶湖で漁師をしている友だちのところへ行って、2時間ほど喋ってきた。外来魚の事や琵琶湖の藻、水草の話。それからいつものようにジャイアント馬場や力道山、大山倍達の話。本当の用事は、琵琶湖の上から花見をすることを頼みに行ったのに、2時間も喋ってきた。冬に広大の同級生の大阪と京都の友だちと飲んで、滋賀県の花火の話になって、花火は湖上から見ることはできなくなったが、海津大崎を船の上からすることならできるかもしれないと言って、気になっていたけど、漁師の友達に話は通していなくて、先週大阪の友だちから、どうなっているのかと電話があったので頼みにいった。オッケイしてくれたので連絡した。四月の5日か12日。琵琶湖のことなので、天候に左右される。海津まで漁船で二時間ほどかかるらしい。七輪を持ち込んで居酒屋漁船で桜見物。天候に恵まれるかどうか、日頃の行い次第ってところだ。
朝から
青空物語を書いていたら、もう10時を過ぎてしまった。これから自治会の用でちょっと出かけなければならない。
3月30日(月)
昨日はフソウ書店へ行って、吉本隆明全集をもらってきた。今回は『言語にとって美とは何か』コジャックで30分ほど読んだ。言語に関する実験でよく取り上げられるのが、狼に育てられた子どもの観察。ある学者が言葉を教えるために、喉が渇いて牛乳が欲しくなったら「牛乳」と言いなさい。それまで牛乳は与えません。みたいな事をやった。ところがオアズケヲさせられたその子は、「ぎー)とか「グー」とか睨んで唸るばかり。ところが牛乳を与えると、美味しそうに飲み干して「牛乳」と言ったそうだ。言葉って心と繋がっている言葉と頭につながっている言葉がある。牛乳を飲んだ子どもの口腔や舌、喉、胃などの内臓が「牛乳」と言わせたのだろう。学者の方の「牛乳」は子どもに言葉を教えるための「牛乳」でそれは頭で考えた言葉なんだろう。何日か前に書いた研究授業の時のことを思い出した。ぼくは、この例を研究会で説明したが。こういう風には説明できなかった。今わかった気がする。ブログを書くのも、自分が慰められるという意味で心の方の言葉の方がいいんだと思う。
そんなことで、今日はちょっと授業のことを。体育の授業のことを。僻地の学校の体育のことを。
ぼくが赴任して初めての担任した学級は、男の子が1人女の子が3人のクラス。短距離の授業、50メートルのタイムをとって、トラックを走ったりするのだが、どうも盛り上がらない。4人で走ってもスタートの時は前へ出ようとするが、ポジションが決まってしまうと、そのあとは順位が変わらずそのままゴール。何度やっても結果は同じ。別に順位は変わらなくていいのだけれど、なんか本気で走っていないのが気になる。前任校はけっこう競争心が強く、同じような授業をやってももっと必死だったし、周りの子どもの声援もすごかった。
そこで考えたのが、400メートルリレー。50メートルのラインを運動場にまっすぐ引いて、こちらに2人向こうに2人別れて、こちらの子が向こうへ行ったら、向こうの子がタッチしてこちらへ走ってくる折り返しリレー。1人が2回走るので全部で400メートルリレー。最初は平凡なタイムだった。2回目を走るとタイムはおおはばに短縮された。もう一回やろうと言い出した頃には走りが変わってきた。声援も出てきた。そうなってくるとタイムもちぢむ。ぼくも満足だった。
この授業にはバージョン2がある。次に行った学校で特別支援学級の担任になった時の合同体育の授業で使った。そこの四年生は4クラス。運動場はその頃の大津市で一番広い。ナナメだが100メートルの直線コースも取れる。指導者もぼくを含めて5人。原理は一緒だが、タッチをするときにスピードが落ちる事が気になっていたのでタッチをするところを工夫した。ビニールの殴っても起き上がるような人形があればいいのだがそんなものはない。どこの小学校にもあるコンクリートを流し込んで塩ビのパイプを立てた旗立台。それにビーチボールを取り付けようという話になった。しかし、毎回毎回空気を入れるのも大変。それではとダンボールをかぶせようということになった。要するにバンという大きい音がすれば良い。その音が次走者への合図だ。けっこう子どもたちは喜んだ。コースを何本も書くのも大変なので、ロープを切って旗立台に繋いでその右側と左側を走るということにした。ロープの長さも何種類か分けて距離も変えて。ローテーションで記録用紙とストップウォッチをもって回る。準備も子どもたちが積極的にやりだした。走るのが苦手だった子どもが好きになっていくのを見るのも楽しい。ちょっと声をかけると走りが変わっていくのがいい。
ちょっと恥ずかしいけど、もう引退したのだから、こんな自慢話を時々書いていってもいいんじゃないかと思っている。

昨日、『青空物語』第11話「春休み」を書き終わりました。ある星の一生はー衛星直列ーという話です。よかったら読んでください。青空物語第2巻にあります。

3月31日(火)
昨日は、送別会に参加してきました。そこで海津の桜の話をしたら。5日なんて何にも咲いていない。四月中旬だと言ってました。今日連絡しよう。京都と大阪の友だちに連絡して19日に花見を延ばした。プロ野球が始まっていた。広島カープは昨日の時点で2勝1敗、きょうのニュースウォッチでは一点負けているが試合中だった。スポーツナビで今見たら、九回の表、てんすうはそのまま、今日は確かめるのをやめよう。明日の朝確かめよう。
4月1日(水)
今日から四月。「四月三つ星は宵に果てる」冬の星座オリオンが夜空からしばらく姿を消す。そしてまた姿を見せる頃に。「樹雨屋」を冬の章まで書いておきたい。そのためにノートの整理とパソコンで書く習慣を取り戻さなければといつも考えているがなかなか実行できない。四月になった。それを契機にしてとりあえずやってみよう。
昨日、椎茸が帰ってきた。資生園へ持って行って浸水にかけてもらった菌床が沢山の椎茸の芽をつけて帰ってきた。
コメダ珈琲で、ホットコーヒーのモーニングとミニサラダを注文してiPadを開き、8時45分まで書いて、それから資生園へ。カープは負けた。大瀬良に不運な一敗が。でも新井が初安打初打点。なんかどうなっていくのだろう。ワクワクする。
4月2日(木)
今日の朝は「樹雨屋」の推敲を少しだけやった。バッサリ切った。
睡眠不足か、酸素不足か、仕事が終わるとめっちゃ眠たい。今日は仕事が終わってから、こころという蕎麦屋で日替わりを食べてこジャックに行った。日替わりはざるとミニ玉子丼八百円。小さな駐車場に、車が3台しかとまっていなかったので店に入ったが、座るところがなかった。それから後もお客さんはきた。ざるそばの時には蕎麦湯がつく。ちょっと粋な気がして満足する。以前は、現役の時はキー丼ととろろを頼んで、キー丼にとろろをぶっかけて食べていた。最近はいつも日替わりだ。それから、コジャックに行って、プラトンを読んでいると寝てしまった。
4月3日(金)
昨日、資生園から連絡があって、今日は忙しくないのでお休みだ。久しぶりの向こうからのお断り。昨日休憩時間に、「シイタケ物語」で太田役のYさんと警察の話をした。Yさんの友だちで警察に勤めている人は、結構仕事柄の制約もあって、慎ましい趣味を持っている人が多いとか。
少しだけ樹雨屋に手を入れた。シイタケ日記も書き加えた。青空物語はコメダで書くつもり。
青空物語をちょっと書いた。基本、青空物語は下阪本小学校の青空の活動をベースにしている。青空会議も時間割にあった。青空会議は基本的にはその週の行事について話し合ったり、先週頑張れなかったことの発表とかしていた。今書いている清掃活動も隔週でやっていたゴミ拾い。青空では2週間位一度ゴミ拾いをしていた。学校の校門を出て、日吉中へつながる里道を歩き、学校の北側を通って旧街道へ、そして学校へ戻ってくる。結構ゴミが落ちている。学校へ帰って仕分けをする。それが12話のモチーフ。
4月4日(土)
もう、一週間が過ぎていく。3月のブログを固定ページへ移動。3月の初めはまだジャイアント馬場のことを書いていた。同級生の通夜と告別式や、三つの卒業式。それと授業の自慢話。フロントのページに8個のブログの固まりができた。1年が過ぎて12個の固定ページができたら編集して1個にできるかな。後4か月で1年になる。
4月5日(日)
また新しく項を起こす。ブログを書いていて金曜日の朝に、今日仕事に行けば明日は休みだと思ったり、日曜日に投稿の編集で「新規追加」をする度に、時間の流れの速さを感じる。時間の速さを残った時間の減少と考えると、何かの目標を作らないと時間は人生の終わりが対称となってしまう。別にそれでもいいのだがというより、例えば自治会の仕事が終わるまであと5年とか考えるより、いつなのか分からない自分の残された時間へと進む時の流れと考えられた方が良い。
昨日は親戚のおばさんの一周忌。色々と思い出した。小学校の低学年の頃の夏休みにこの家の前で友だちを待っていると、おばさんに「早いね」と声をかけられたこと。これはラジオ体操が、その年はこの家の軒先でやっていたのと、ラジオ体操の前に田んぼの方のクヌギの木に集まってきているカブト虫やクワガタを採りに行くのだが、だんだん時間が早くなってしまって、その日は日の出の前に畑のところで待っていたのだと思う。家の戸が開いておばさんが出てきて、おばさんもびっくりしたのだろう。その他にも、お風呂をもらいに曽祖母とこの家に来た時のこと、家の中の掘りごたつのこと。おじさんの車椅子をおばさんが押していた時のこと。その人が亡くなった後も時間は流れているが、その人の時間は止まったわけではない。その人の時間は産まれた時を始点として、臨終の時を終点として、始点と終点の幅を行ったり来たりしている。生前に関わりのあった人の思いの中で。
昨日も今日も「シイタケ日記」が休みなので、授業の話など、
朝日新聞の「花まる先生」の記事を時々読んだりする。評判の先生の授業のルポ。広島で就職した時にそれに近い人に何人かであった。最初に教壇に立ったのは、中学校の数学。中学校の臨時講師の募集が福山市であって、そこへ行って、教えられるとしたら数学ですと面接で言ったら、中学校の数学の講師が決まった。
中一の数学の教科書の最初の頃に正の数負の数が出てくる。小学校には無い、中学校で初めて聞く概念だろう。教科書には温度計で説明してある。今日の温度は何度、それが温度が下がると0度になり、さらに下がると、マイナス1度、さらにマイナス2度。当たり前のことだ。マイナス2度は1度より何度低いか?すぐに分かる子と、全く分からない子がいる。僕は数学は中学生の頃好きだったので、数学が嫌だという子の気持ちがわからなかった。後で聞いた話だが、ある学校の先生が筆箱に入っている15センチの線引きで上部は15センチの長さのモノサシ。逆さの辺は、真ん中で色分けをして中央の目盛が0、右に1・2・3……。左に1・2・3……の線引きを全員に持たせていて、それを使って正の数負の数の授業をやっているということを聞いた。なるほどだ。右の1と左の2の間に3の目盛りがある。視覚は理解を助ける。
中学校の講師の時に診断テスト集という本があったのでそれを使った。それも大変重宝した。授業の意味を教えてくれたのかもしれない。授業の始まりに5分ほどでできる小テスト。小学校の算数の問題が10問ほど選んである。丸付けをすると中学生の数学に関する学力というか知識技能はどのクラスも正常分布曲線を描いていた。よく分かる子もいれば全くわからない子もいる。それから、休み時間に職員室にくる子が増えた。教えてくれと言う。そんなこともあって、そんな時間が楽しくて教師の仕事を選んだのかもしれない。仕事を終わって毎日寄っていたスナックで、教師って面白いということを何人かの後輩というか、知っている大学生に言って、何人かが就職をしたがその仕事を辞めて教師になった奴もいる。診断テストは、その後に小学校に勤めてからも新しい単元に入る前にやった。指導書の付録見たいところに、フロアーチャートというか、教材の分析が載っている。それの矢印を逆に辿って問題を作る。弱点を知っていると声かけや机上巡視が効率的にできる。もう一つ。これは数学教師の集まりの席で聞いたのだが、天秤を作って方程式を理解させたという話。実際に使っているところを見たわけではないが。X+4=8ならば左の皿から4個の重りを除けば天秤が右に傾き右の皿から4個除けばXの重りと残った4個の重りが釣り合ってXは4であることが分かる。等号や移行の説明もできる。二次方程式だって、Xの二乗の重りを作っておけば整数ならば簡単だ。説明だから整数で十分だ。その後小学校でも四角の式で使えたし、天秤の図を使って板書すると子どもたちも理解しやすいので使った。特別支援学級を持ったときに算数天秤の備品を買ってもらったが、これも加減乗除の計算に便利だった。そのスナックで知らないお客さんと魔法陣の話をしたことも思い出したが、また整理してかける時がきたら書こう、連作広島の方で書くかもしれない。スナック「ベル」の話として。
4月6日(月)
今日は資生園へ行く。新しい菌床が届くのだろうか、もう届いているのだろうか。昨日、国語の得意だった中学のと高校の同級生とコメダ珈琲で会った。高校を卒業して彼は立命館、ぼくは浪人。そのとき彼に大学生が読んでいる本の紹介をしてもらった。浪人生活が終わって、広島へ行くときに持っていった本の話をした。埴谷雄高『死霊』吉本隆明『情況』漫画『永島シンジ作品集』それを持っていったおかげで、寮生の先輩から一目置かれた事も話した。彼のお母さんがなくなる前に病床で「飯田さん、どうしてやるんやろう?長靴履いて来はったな」と急に言い出したので、広島から帰って、今は教師をしていると言ったという話も聞いた。
彼に添削をしてもらうことになった。先ずは「樹雨屋」今週のどこかでプリントアウトをして持って行く予定だ。
シイタケ日記の今日の文を書き終わりました9時52分。
4月7日(火)
昨日も今日も、朝起きて「樹雨屋」の推敲をしているが、どうも調子が悪い。他のページでは問題がないのに、「樹雨屋2」ではタッチパネルの反応がおかしい。タッチしてもカーソルが別のところへ行ったり、キーボードの反応も非常に遅くなるので文章がゆっくりゆっくりしか書けない。原因がわからないのも困ったもんだ。
ダメなのか、カープはダメなのか。そんなことはない。1対0みんなが頑張っている。BSを見ていられなくなってネットで見ている。大丈夫、負けたっていい。くさらなければ、大瀬良がくさらなければ。もう一度ネットへ二塁打を打たれたネットへ。一対一になっていた。もう一度ネットへ。サヨナラは無理なのか。ワンアウト、堂林が二塁、もう一度ネットへスリーアウト、延長。 まけるかも。一点入れられた。
4月8日(水)
昨日のカープの結果は負け。でも大瀬良は踏ん張った。
今日もやってみたが、「樹雨屋、雨水」を開けるとタッチパネルがおかしくなる。別の場所で推敲してから入れ替えよう。結構自分なりに頑張れるようになってきた。「シイタケ日記」「青空物語」「樹雨屋」に毎日手を加えられるようになってきた。連作広島もアイデアはある。これもカウントのおかげだ。昨日は30件ほどの閲覧数があった。昨日はフランスの人が結構長い時間訪れていてくれた。今日の朝は中国の人がさっきから読んでくれている。
今日も結構忙しかった。シイタケ日記で午前中のことは書いたので、続きをここで。ちょっと早めにシイタケの仕事を終えて、伊香立を通って、仰木支所へ、そこで自治会の配布物と回覧物をもらって家へ。家で着替えをして、日吉中へ、中学校に車が止められないので、別のところに置いて、歩きで駅へ。駅で、「青空物語」のピッピ役の女の子のお母さんに声をかけられた。ちょっと喋って、日吉中へ。日吉中の卒業式はこの前が初めてだったが、入学式は何回か来ている。卒業式と違って、新2、3年生が頼もしく見える。先輩という感じだ。体育館に入るなりブラスバンドの練習。ぼくは保護者席へ。保護者も明るい。知った人には誰にも会わずにエクセルに腰掛けて新入生の入場を待つ。その前に来賓が入場してきて、知っている顔もある。お目当ての子らは3人とも同じクラス。中学生になったんだ。学生服とセーラー服。表情も穏やかだった。安心した。呼名もしっかり返事をした。迷いが感じられなかった。いろんな挨拶があって、退場。退場する姿もリラックスしていた、胸中はわからないが。卒業式の時と同じように「保護者は残ってください」というアナウンスがあったので、会場を出た。歩いて車まで行って、市役所へ。市役所へ今日締め切りの河川愛護の提出物を届けるために。途中でコンビニでコピーをしようと寄ると、そこで本当に偶然で、今年卒業した子に出会った。その子と立ち話。進路が決まっていない子の進路を聞いてコピーして市役所へ。市役所に提出して、コメダ珈琲へ。そこでシイタケ日記を書いて、コジャックヘ。コジャックで三木成夫「生命とリズム」を読んで帰ってきて自治会館へ。そこで会議が終わったのが10時半。それからこのブログを書いて、1日の終わり。
4月9日(木)
「青空物語」を毎日少しづつ書いていると、1日でもサボると動きが止まってしまうのではないかと思ってしまうし、「青空物語」を編集していると、他のページのアイデアが浮かんでくる。そちらに手をつけるとこちらを忘れるのじゃないかと思っていると、そちらを忘れている。記憶といううのは儚いもので、泡沫(うたかた)みたいにできては消えていく。「言語にとって美とはなにか」を読んでいると、音声なり文字なりがまさに泡沫で、発された時、書き出された時に言語になり相手に伝わる。書き出さなければ、喋り出さなければどこへも伝わらずに消えていく。人と出会ったり、文章を書いていくことで、また、人の話を聞いたり、活字を読むことによって、生きていっている部分、もっと言えば、喜びや苦しみを味わっているのかなと思う。
「青空物語」で〈宇宙の晴れわたり〉という言葉を見つけてつかった。ビッグバンがあって38万年後に電子がいろんなものとくっついて元素を作り出し、その結果光子が自由になり、どこまでも進むことができるようになって、それまで霞んでいた宇宙が晴れわたったんだそうだ。そして超新星爆発があり、物質がばらまかれそれが集まって恒星が作られる。恒星にも2種類あって種族Ⅰと種族Ⅱ。我々の太陽は種族Ⅰ。もちろん青空物語に出てくるゼットンも種族Ⅰ。何が違うのかというと、重金属が多く含まれていて、惑星がたくさんくっついている。
朝から、変なことを書き始めてしまった。この辺でやめないと仕事に行けない。
4月10日(金)
今日はゆっくりできる。午後出勤で、プラダンを松岡満運輸へ持っていく。でも広報の仕分けもあるl
4月11日(土)
昨日は「シイタケ日記」を長く書いていて、こちらが少なかった。今日は資生園の仕事に行かないので「シイタケ日記」は休み。と書いたが、昨日、焼酎を飲みながら書いたので、チェック。今回(シイタケ日記4月10日)は紀行文調で書きました。読んでください。iPadと僕の小さな旅。コジャックで「言語にとって美とはなにか」を読む。意味論。音声や文字は存在していても伝えなければ言語ではないのだろう。ましてや文学となると何を伝えるのか。
これから友だちと会う。樹雨屋を読んで添削してもらう。
今帰ってきました。10時25分。スポーツナビを見たら、カープの勝ち。つくづく、負けた大瀬良の粘投を思う。明日負けてもいい。連勝はプレッシャーだ。負けた時どう反省するか。カープは、育っていかなければ優勝できない。連勝は心持ち、そして一敗。苦手な、交流戦までに五割。それが優勝への方程式じゃなくて、漸近線。
4月12日(日)
今日も法事が10時半からある。お酒が出るので、朝、ちょっと「樹雨屋、雨水」を推敲した。昨日、コメダ珈琲で友だちに「樹雨屋1」の原稿を見てもらった。色々指摘してもらった。この前は句読点の事だったが、昨日は色のことを指摘された。赤い車、白い軽トラ、そんなのは読者に想像させる。説明しようとする気持ちを極力抑える。ぼくの編集者になってもらう。なかなか心強い。
昨年の4月7日に亡くなったおばあさんの一周忌。昨年はこの時期に親戚の90代のおばあさんが連続して三人亡くなった。昨年の4月に、ぼくは自治会の役員メンバーに入った。うちの自治会は十の組があって、その代表の組長さんを集めてやる組長会の準備をするのに、5時半頃だったと思うが、自治会館へ行こうと歩いていたら。その家は自治会館の向かいにあるのだが、その家の前で葬儀社の人が携帯で電話をしていた。「ここもか」と思った。
ここらの風習で、家族がなくなると逮夜といって、初七日から四十九日まで、1週間ごとにその家に集まって、「数珠くり」という事をする。長い数珠の中へ住職が入ってお経と念仏を唱える。数珠の長さも家に寄ってマチマチだが、8人から12、3人の人が両手で数珠を持って右へ右へと送っていく。数珠を回している中の一人が「数取り」といって積み木みたいなもので何回回したかを数えていく。100回回せば終わり。その逮夜を二つ持っていた。何曜日かは忘れたが、仮に水曜日は**家、金曜日は**家。自治会館の前のおばあさんは100歳に近い。よく、「一枝さん、一枝さん」とうちの母を訪ねてきていた。母が映画に出た時も、無理やりそこの家を母の住居にして使った。母が強引にそのおばあさんを口説いて、その家でロケをした。ちなみにその映画は「峠の虹」という。
話を戻すが、もし、おばあさんが亡くなっているのなら、逮夜が一週間に三回になる。親戚ではないがその時、うちの組うちで二人が亡くなっている。一週間に四回の逮夜参りの人も出てくる。自治会へ入って「**のおばさん、亡くなったん?」と先に来ていた人に言うと、「知らんで。ホンマか、大変やん」大変やんの中には、五月の祭りが近ずいてきているので、祭りに参加できない人が出てくるという意味も含まれている。その家の家族の誰かがなくなると喪に服して、神社の鳥居をくぐれない風習が残っている。その後、組長さんが集まってきて、おばあさんが亡くなられたことがはっきりした。昨年の桜が満開の時に逝ってしまった三人のおばあさんの死で、うちの母が一番ショックだったのは、このおばあさんの死だと、何ヶ月か後に母が言った。
そして、ぼくは一週間に三回「数珠くり」をした。「数取り」も10回以上した。

4月13日 (月)
今日も雨。資生園は9時から。朝、「樹雨屋、雨水」の推敲を少しやって、今から、「青空物語」を書こう。月曜日は今週の始まりだと思う。日曜日から始まるのは何だろう。
そういえば今日はというより、いつか書こうと思っていたことを、酔いのついでに書いてしまおう。時間の事。時間には外的というか、客観的というか、宇宙が生まれた時から流れている時間がある。その時間とは別に、内的時間というか、個人の感じる、「まだ終わらないのかなあ、ながいなあ」とか「えっ、もう時間なの」みたいな時間。最近、今までだったら長いなと感じていたことが、そう感じなくなってきた。例えば、昨日書いた法事の住職のお経。誰かと約束したイベントがすぐにやってくるなど。これは脳の劣等なのかと思っている。余裕のない脳に僕の脳がなっているのではないか。変な言い方ですが。年を取っていくと、そんなことも考えてしまいます。例えば、自分の身近にいる人たちに、もう、何歳になったのかとか思うことがあるが、それは大きなお世話だ。僕の内的時間が、その対象をそうと捉えているだけで、その人の内的時間はもっと違うのだろう。若い人たちに、希望を見ていこう。

4月14日(火)
最近ちょっと飲みすぎかもしれない。頭がすっきりしない。
昨日のブログも訳がわからない。そういうことを考えていたのだがうまくかけていない。宮沢賢治は足で書け。と言っている。外に出て風景や人を見ていると、何かを思い出したり、何かを考えてしまうことがある。その浮かんできたものを覚えていられればいいのだが、忘れてしまう。宮沢賢治はマメにノートにメモしたらしい。文字に残すと後で、それを見たときに、その時見たこと考えたことを呼び起こす力がある。言霊という言葉が日本語にはあるが、慢心した言葉を使うと悪いことが起こるとか、それも、古代の人が、言葉の持っている不思議な力を感じていたのだろう。言葉は他人への伝達だけのものではないのだろう。自分自身への伝達が思考を深める。そんなこともあって、書きとめて置くことが重要だと賢治は言っている気がする。中学生の頃の受験勉強でノートに写すと記憶が残る、手で覚えろと言われたことも結構大切な事なんだろう。「樹雨屋」を書き始めた頃、「川端康成、文章ノート」と「太宰治文章ノート」と「埴谷雄高文章ノート」を作って朝起きるとそのノートに気に入った文章を写していた。最近はやっていない。また始めなければ。

4月15日(水)
今日の朝はびっくりした。「サーバーが拒否して停止しています」みたいなメッセージが出てきて、インターネットにも繋がるのに時間がかかる。動揺した。全部消えたらどうしよう。昨日ダウンロードが完了したワードのアプリを消したら、ネットが早く動くようになった。エラーメッセージを検索したら、解決法が出ていて解決できた。ホッとしてこれを書いている。バックアップをしなければ。それとネットってすごいな。なんでも解決してくれる。
昨日、「言語にとって美とは何か」を読んだ。以前読まなかった領域まで進んだ。文字について書いてある。昨日の宮沢賢治の足で書くの時に考えたこと。文字にすると自分自身との会話、伝達ができるということ。それと同じようなことが書いてあった。それと、表音文字と表意文字。ぼくは仮名が表音文字で漢字が表意文字だと国語の時間に聞いた記憶があるが、吉本隆明はそんなことは意味がないという。それよりも自己表出と指示表出の物差しがあればいいんだと言う。「恋人」と書いても、「こひびと」と書いても「こいびと」と書いても何かの像が浮かぶ。その像は、恋人という歌詞が入っている歌を歌っている歌手の像だったり、ドラマの俳優だったり、昔付き合っていた人のことだったり、人それぞれ違う像が浮かぶ。文字と像。文字が表現の意味を持つようになる。そうだなと思う。
昨日は映画を見てきた。「ジヌよさらば」松田龍平。子役とヤクザ、前にも書いたが、映画というよりストーリーを作るときにこの二つを使うとやっぱりストーリーが作りやすいのだろう。脚本も監督も松尾スズキ。主役じゃないので、「監督、脚本、出演」とエンディングロールに書いてあった。片桐はいり、阿部サダヲ、荒川良々。映画が終わって出てきたときに老夫婦がの婦人の方が「あまちゃん」みたいだったねと話していた。阿部サダヲは佐藤B作みたいな役だったが、なんか最近真面目役が多くなったというより、真面目、人情路線を進んでいるみたいだ。主役は阿部サダヲでいいんじゃないかと思った。というより主役だった。松田龍平は主役と書いてあったが脇役になっていた。松田龍平も脇役の方がいい。映画は批評だ。と友だちが言ってたけど、本当に映画を観た後は批評家にみんななる。昔は見終わったら主人公になっていたのに。
それでいいんだ。マエケンが投げて、負けたらそれでいい。黒田で負けてもそれでいい。先発ってそんな仕事でしょ。仕事ができればそれでいい。くやしくはない。

4月16日(木)
昨日は編集者をやってくれる友だちと飲みに行った。魚の美味しい「遊山」生ビール、立山、黒霧島を飲みながら、何日か前に渡した原稿の添削と
「これ、読んでみてくれ」
と渡されたのは、3枚のA4用紙。
「原稿を読んでいるうちに、書いてみたくなった」
しっかりした文章で「もう一つの樹雨屋」が書かれていた。今度データを貰って、ホームページにアップすることをオッケーしてくれた。来週あたりに「もう一つの樹雨屋」で固定ページに載せたい。一年先には、二つの樹雨屋という小説ができるかもしれない。昨日教えてもらったこと。
「文をつないでいくときは、過去形と現在形を交互に書いていく」
「なんでや?」と聞いたら、読みやすいと言っていた。
むかし、学生時代に同人誌を一冊出した。『幽暗の時刻』。その頃は著作権とかそんなにやかましくなく、清岡卓行の詩からとった名前だった気がする。僕は小説を二本書いた。一本は太宰治の「晩年」からのイメージ、もう一つは清岡卓行の砂流からイメージしたもの。まだ、俵万智もいなかった時代。短歌を載せた。同人誌を買って読んでくれた人がどう思ったかはわからないが、同人はみんな、現代短歌の新鮮さを感じた。

4月17日(金)
朝の1時間ほど、「樹雨屋雨水」の推敲をした。私設編集者に届けられる。
昨日、仕事が終わってからコメダ珈琲へ。昼メシとブログを書く目的で寄った。コメダ珈琲の客は、僕を含めてリタイア組が多い。それを見ていて、いいな、と思う時と、哀しさを感じる時とがある。昨日は後者だった。その人が寂しいとか、苦しいとか言っているわけではないから。でもそのように映る。自分の今の気持ちがそう感じさせているのだろう。
なんか、ものを考えると、そして、文章にすると暗くなってくる。でも、実際の生活で出会っている人たちとは明るく接している。資生園でのやりとりも、コメダ珈琲での店員さんとのやりとりも、パチンコ屋での常連さんとのやりとりも、みんな明るい。別にそう振舞っているわけではないが、何の苦労もなく悠々自適に生きている人間に映っている。実際そんな部分の方が多い。人間多くはそうなんだろう。犯罪者や、有名人の中にはそうじゃない人の割合は上がると思う。
今日、謎の編集者とこのホームページの製作者と、2時間ほど出会って話をした。そして、固定ページに、「もう一つの
樹雨屋」「樹雨屋ノート」をアップした。これからも続きを書いてもらうつもりだ。話がつながりながら、離れていって。二つの作品が出来上がる事を期待している。

4月18日
「シイタケ日記」の昨日の分を書き終わった。来週あたりから、田んぼに取り掛からなければ。昨日、来週から資生園の勤務を午後に回してもらった。午前中に農作業、午後に椎茸。体が持つかな。
今日も忙しかった。朝は推敲。6時から9時ぐらいまで、改行したあとの一字開きができない。推敲と言っても2時間ほどそれのやり方を試行錯誤していた。それから、ガソリンを入れて、何をしたのだろう。忙しくて忘れてしまった。道路が混んでいた。電話もかかってきた。マノーナにも寄った。直売所は、土、日はやっていない。サラダほうれん草は手に入らなかったが、土曜出勤をしている人に椎茸を分けてもらった。それから、セブンイレブンに寄って真野浜へ、同級生の漁師の友達と明日の打ち合わせ。明日の花見は雨かもしれない。それからアヤハへ炭と網を買いに。あちこち駆け回って明日の準備でも、明日は雨らしい。雨でも決行。結果はまた報告します。
4月19日(日)
今、6時半。雨はまだ降ってきていない。昨夜に準備しておけばよかった。7時から準備をしよう。忘れてはいけないもの。包丁、着火剤、わさび。箸。七輪。傘。塩コショウ、ボール。食材調味料。コンビニで買うもの、ビール、水、氷。雨天決行。

4月20日(月)
昨日は、7時から準備。車の中のものを家の中に移して、積み込み。メモを見ながらでも忘れてしまうことがある。忘れたら舟の上。取りに行けない。真野浜の漁港へ行く。小雨、車の荷物を船室へ。船室に入りきらないものは車に残しながら、堅田駅へ。約束は9時。車の中で「完本、美空ひばり」を読んでいると、電話が鳴った。大阪の友だちから、「9時6分に着く」とのこと。時間になったので駅の構内へ入ると入り口に京都の友だち。ひとつ先の電車できたとのこと。全員揃ってコンビニへ。雨は激しくなってきた。ビール、ワイン、水、氷を買って、栓抜きを忘れた事に気が付いて、(でも本当は持ってきていた)それを言ったら、大阪の夫婦が向いのイズミヤのダイソーへ。そこで雨具も買ってもらった。
港へ。漁師をやっている友だちがきて、まずは屋根作り。パイプにブルーシートをくくりつけ、板で台を作りそこへ七輪とガスコンロ。椅子を用意して、船室から食器、食材、調味料、まな板包丁、ビール、ウイスキー、焼酎を出して並べる。椅子も借りる。iPadの音楽をかける。山口百恵「愛染橋」。
出発。大きなディーゼルエンジンが動くと。音楽はまるで聞こえない。炭に着火剤で火をつける。風と雨はすごい。まずは日本酒で乾杯。肴は漁師の友だちが差し入れてくれた鮒の刺身。この辺りでは「こつき」といってフナの子がまぶしてある。食器は何処、醤油は何処。取り出しながら。琵琶湖を北上していく。散っているのか、残っているのかわからない。大きな声で会話をしながら、まな板と包丁を取り出し、砂肝を切っていく。炭もいこってきたので、七輪に網、ガスコンロにフライパンを載せる。砂肝に塩胡椒して串にさしてもらい、網には椎茸。ササミを斜め切りにして、塩胡椒、フライパンへ
。そんな事をしていると、みんな景色を見る余裕もない。
比良山は上と下に雲がかかり、真ん中だけが見えている。日本酒を飲みながら、湖岸は旧志賀町を通過、高島市へ。京都の友だちが「白髭神社はどこら辺りか」と訊くので操縦席へ。そうしたら、琵琶湖の中の鳥居へ近づいてくれた。走って入るとうまく焼けないのでどこかで休憩しようと提案する。11時になったら船を止めようという話になる。船木、安曇川の河口の沖で停泊。炭火は琵琶湖の風で十分に燃え、うまく焼ける。マノーナのサラダほうれん草を刻んで、卵焼き器で炒め、卵を溶いて卵焼き。炭火の方では、白子、豚バラ、豚トロ、これも、マノーナのレタスで巻いて食べる。もも肉を一枚七輪にかぶせ丸焼きにして、細ネギとポン酢で食べる。ビール、ワイン、ウイスキー。
休憩が終わって、舟はまだ北上。そして、目的地海津大崎へ、まるで桜はなかった。船着場に舟をつけると、係員の人が走ってきて、ここにつけるなと言う。船長と一悶着。それでも、強引に「トイレ」とか言ってちょっと降りる。
再び出発。その頃には雨が上がっていた。竹生島を一周。大阪の友だちは琵琶湖周航の歌を酔っ払って歌っている。あとは、琵琶湖の上から島巡り。竹島を遠くに見て、白石へ白石をゆっくり見て、沖島を裏から表に回って、琵琶湖大橋まで行って、真野漁港へ帰って来た。後始末をして、堅田駅へ歩いて帰った。フラフラだった。みんな満足。楽しい1日だった。強行して良かった。

4月21日(火)
〈4月20日、今日から穀雨。少し早く樹雨屋に到着した。センセイのお供をして市場へ行った。〉
「樹雨屋」のメモに書いてあった。穀物を育む雨が降る時候。昨日も雨だった。「シイタケ日記」で書いたように散々な1日の始まりだったが、終わってしまえば、普通の1日だった。
夜に、一昨日の残った焼酎「くろうま」を飲みながらこれを編集していたら、大阪の友だちから「楽しかった」コメントがあった。30年、40年があっという間に過ぎたと、昨年京都の友だちと飲んだ時に思った。でもこうして集まるのも今回で4回目。なんというのか楽しい。以前のままだ。以前のままの関係。以前のままのやりとり。広島の医学部の学祭で観た藤田敏八の「8月の濡れた砂」を思い出して、コメントを返信した。石川セリの歌が最後に流れていた。

4月22日(水)
今日も、資生園は午後から行く。朝から、「連作、広島」のバイトの話の推敲。何かのきっかけというか、誰かに会うとその作品を何日か集中して推敲する。楽しい。もちろん日曜日のことで、広島を推敲している。この後、朝飯を食べて、田んぼへ。晴耕雨読の理想的な形。今週は久しぶりに晴れの日が多い週になりそうだ。でもトラクターは動くのだろうか。一抹の不安がよぎる。
ごめんなさい。今日は酔っ払ったために明日、今日思ったことや、今日考えた事を書きます。コジャックで吉本隆明も読みました。明日、そのことも書きます。
4月23日(木)
以前に、短歌を現代文で書くことの新鮮さに驚いた事を書いたが、日本語という言語、言語の持つ表現、韻律、そんなものが時間をへて、体験を積み上げてできたものだという。
それは俳句でも同じなんだろう。
〈目に青葉 山ほととぎす 初鰹〉
この山口素堂の句。人それぞれに解釈される。鎌倉にて、この作者が山を観ていたら、山からホトトギスの鳴き声がして、初鰹が美味しいと。これは目→耳→口と動いて行くところが面白いとネットに載っている。若葉が繁る頃、山にはホトトギスが鳴き、初鰹が出回るが高価なものだと江戸っ子の気持ちを読んだと解釈するのもあった。短歌や俳句の5、7、5のリズムが像を読み手に呼び起こされるとしたら、「目に青葉」は作者が、春になった例えば花が散ってしまった桜でもいいし、サツキでもいい。目の前にある樹木を見ている。この季節に山へいったときの記憶が蘇り、そういえばホトトギスが鳴いていた。巷では初鰹が出る季節だと、江戸の街並みに視点が映る。短い言葉にリズムが作用してできた形が俳句短歌というものだそうだ。無理に解釈しなくてもいい。自分の頭に浮かんだ像が新鮮だった。電車のドアが閉まる、とか、喫茶店の窓とかペイブメントとか、が短歌の韻律にのると一人一人のその過去の映像が蘇る。歌と言われる所以なのかもしれない。

4月24日(金)
今日は朝から草刈り。二本ある草刈機の一本が動いた。ホッとする。農機具はしばらく使わないでいるとエンジンがからないとか、クラッチがきれないとかトラブルが多い。機械のトラブルは意欲にも影響するし、サイフにも影響する。深刻な問題だが、普段から点検しておこうと思うのはトラブったあとだけ。ものぐさなのだろう。きちんとしている人は凄いと思う。
今日は朝から「言語にとって美とはなにか」を読んでいた。あんなに難解に思えた本が、結構面白い。韻律と音韻。韻律というのは言葉のリズム、七五調とか五七調とかとざっくり解釈しながら読んでいると、あっそうかと納得する箇所がある。音韻とは、アクセントとかしり上りとか。指示表出と意思表出。指示表出は目に見えるもの、意思表出は心を動かすものと簡単に解釈して読んでいる。言語特に文学とかいうものを指示表出と意思表出の物差しでもって解き明かしていく。なるほどと思うことが多い。なぜあの頃は理解できなかったのだろう。
この本では比喩もこの物差しで測る。
比喩がもっとも文学の中では価値がある技法だそうだ。中村明の「文体トレーニング」で比喩がわかりやすく書いてあるので、その本から拾ってみると。
直喩:部屋自体がそれこそうどんの茹釜(ゆでがま)ではないかと思われるほど暑い地下室の社員食堂ー曽野綾子《遠来の客たち』
形態的特徴は、たとえるものとたとえられるものとをはっきり区別して書かれている。
隠喩または暗喩:川よ 自然がほどいたながい帯よー島岡晨『巨人の夢』
形態的特徴は、直喩が「XはYのようだ」というのに対して「XはYだ」とか「YというX」直接書く。
諷喩:真葛(まくず)が原に女郎花(おみなえし)が咲いたー夏目漱石『虞美人草』
形態的特徴は、これが花の話ではなくある女性すなわち人間について語っていることが分かる。
もう一つ諷喩を、
かじとりのぼくが下手だからといって中でおまえがあばれだしたら、小舟はひっくりかえって全滅するだけなんだ。ー島尾敏雄「死の棘(とげ)』
そのほかにも、擬人法、堤喩と換喩(白いものが雪とか白髪、パンのみにて生くるにあらずのパンは食べ物みたいに類と種との関係で置き換わる表現)も書いてある。

4月25日(土)
今日は昨日のシイタケ日記を朝から書いていた。9時に児童公園の草刈りをしなければならないので結構必死で書いた。今日は「樹雨屋」の編集者と打ち合わせ。手厳しく指導してもらった。なるほどと思うこたが多かった。
4月26日(日)
足で書け。その通りだと思う。朝、今日のブログが書きづらくて、連作広島を推敲していた。7時になって田んぼに行くと、川の土手の草がちょっと刈ってあった。心に火がついた。続きの草刈りをしていて思ったこと。川の土手の草刈りをしていると、知り合いの人が車を止めて、「頑張ってるな、でも自分とこの草を先に刈らにゃ」と言われることがよくある。心配してそう言ってくれる。言ってくれる人はいい人だ。ぼくは子どもの頃から川で遊んでいたし、川と道が草で閉ざされても、川へ行って遊んだが、今の人工の川は人と馴染んでいない。この時期にぼくが川の土手の草を刈らなければという使命感見たいのがあって、土手の草を刈る。ほんの20メートルほどだ。なんというのか、自分のことは後回しというのがかっこいいと思ってしまっている。そんな人がいい。というのがむかしだ。それが、それをいいなと思う人がいなくなっていってもらっては困る。唯一ぼくが実行できるのはこれだけだ。土手の草を刈って、川へ誰かが降りてくれる。そこで事故が起きたりしたら困るが、川で遊んで欲しい。草刈りが終わって、田んぼのトラクター。3時間ほどうごかしていた。田んぼを掘り起こすと、春に田んぼを耕すと、鳥類と関わることになる。朝、田んぼへ行くとサギ、ゴイサギが立っている。どこを見るとはなしに。立っているだけ。田んぼを耕し始めると、シギ、カラスがやってくる。掘り起こした土の間に、ザリガニやミミズが出てくるのを知っているから。掘り起こした土の間に、ザリガニやミミズ、オケラが出てくるのを知っているから。そして田んぼに水を貼ると鴨がやってくる。それと鷹、鷹は鋭い。鷹は5年ぐらい前からやってきた。電線に止まってじっと見ている。四年前、休憩にパンを買ってきて、たまたま来ていた知り合いにあげたら、それを目当てに飛んできて、知り合いの頰に爪痕を残した。もっといっぱい頭の中に浮かんだのだが、今日は足でこんな言葉が残せた。

4月27日(月)
朝から草刈り、草は伸びる、伸びる前なら刈りやすい。今日も午前7時過ぎから、川の土手の草刈りをした。今更やめられない。集落の違う、真野川や、和迩川は、いつもきれいに草が刈ってある。ぼくの住んでいる仰木の天神川は、年に一回、奉仕作業として行われる。それで終わる。変な話だが、ウチの田んぼがあるエリアだけ草を刈っている。そうすると、向かいの土手も刈られていたりする。うれしい。善行とかいうのではないし、善行と思われたら嫌だなと思う。でも、同級生で飲むときなんかは、「ぼくは草を刈っている。お前も世のため人の為に良い行いをしろ」と説教する。昨日同級生と話をしていて、残り少ない時間の過ごし方は思うように、今まで生きてきたようにそんなに変わらず、思っていることをやればいいみたいな結論になった。今日は久しぶりに「青空物語」がすすんだ。柔道の体落としという技は面白い。「青空物語」でちょっと考察してみたい。

4月28日(火)
今日は、陰の編集さんから電話があって、コメダ珈琲で会った。こんなに真剣に読んでくれて、感謝だ。マイナス評価が13、プラス評価が1。本気で読んでくれているのが嬉しい。
この回想がなぜいるのかわからない。無い方が物語がスムーズにいくとか、手厳しい。こんな事が言って欲しかった。ぼくとしては、そのまま、受け入れるのではなく、これならどうだ、という文を書くこと、作者と編集者が闘って作品ができる。理想の形だ。

4月29日(水)
朝、田んぼに行ってると携帯が鳴った。祭の小道具を配布する日のことをすっかり忘れていた。大失敗だ。二年目の緩みだ。急いで帰って、軽トラの荷台をきれいにして自治会館へ。そこで地下足袋を組ごとに分けて、扇子や役員のタスキ、委託状を配る。それから、コメダで朝起きた時に推敲していた「シイタケ日記」の推敲を2時間ぐらいやって、シングルカットでアップした。それから友だちのところへ行って、2時間ぐらい喋って、パチスロ、へ行って、すってコジャックへ。コジャックで「言語にとって美とは何か」を読む。それから、リベンジにいって取り返す。毎日ハラハラした人生を送っている。刺激がなければなあと時々友だちと話す。そんな1日でした。シイタケ日記シングルカットを読んでください。

4月30日(木)
明日から四日間小椋神社で作業したり、儀式をしたり。そして祭が終わる。祭の後のさみしさは最近は感じない。高校生の頃だった。初めての神輿を担いだのは。大人に混じって1トンほどある神輿を担いで神社を出る。ぼくはメンバーの中では身長は高い方。もろに神輿の白棒が肩に食い込む。神輿に肩が届かない人はぶら下がっている。5メートルも歩くと肩が痛くなってきて腰が砕けてくる。前かがみになると神輿がこちらに傾いてますます荷がかかる。しゃんと立ったほうが痛みは少ないのだが普段から肩を使っている大人と違って瞬発力はあるが持続力がない。

5月1日
8時半に小椋神社集合。それまでにナタ、ノコギリ、鎌を用意しなければ。
今、家にたどり着きました。時間は0時9分。ブログに上のコメントを書いて、出かけたのが8時30分前、小椋神社集合は9時。毎年なら、竹を切るところから始まるのに、早起きをして、先に竹を切ってきてくれている人がいて、感謝。それから、はしごを上がったり、重い荷物を出したり、テントを張ったり、提灯を吊るしたり、杭を打ったり、重い本当に重い神輿を載せる台車を出したり、神輿の邪魔になる枝を切ったり、して半日と四分の一。それから、酒を付き合ったり、接待をしたり、カンをつけたりして帰ってきたのが0時。明日は、6時に小椋神社しゅうごうで蔵から神輿をを拝殿にだす。

5月2日(土)
宵宮の朝、6時集合に間に合った。五つの神輿を蔵から出し、拝殿に並べる。大宮、若宮、新宮今宮、田所という名前がついている。朝から通風の症状で足のカカトあたりが痛い。神輿を担ぐのは無理なのでシンギという神輿を載せる台を運ぶ。今日も忙しい。お昼は総代の家へ行って、そのあと警護という役の中学生を小椋神社まで送る。その子たちを向かいに行ってから、自治会館で明日の儀式のリハーサル。そして、夜は総代の家で頼み酒。痛風がおさまらない。今晩はアルコール抜きで行こう。祭で竹を手に入れたので、明日でも日吉台小学校へ届けよう。

5月3日(日)
今日は本祭、今日も6時に小椋神社。拝殿から拝殿の前に神輿を出してから家に帰り、紋付、羽織、袴に着替えてから再び小椋神社。そこで例祭。そして家に帰って、お客さんと酒を飲んで、1時45分に自治会館集来という儀式があって、行列で小椋神社へ。そして神輿を担いで、………詳しくは小椋神社のサイトで見ることができるらしい。

5月4日(月)
終わった。今日は後片付け。少しゆっくりできる。9時から始めればいい。交通規制の看板を外して、1日に準備したものを撤去して、お礼の配り物をすまして、お昼に、ナオライ。みんなで飲む。
これも、結構、取引というか、面白い。祭の後の楽しみかもしれない。取り急ぎ祭の四日間が過ぎた。明日から、詳しくはないけど、祭りを振り返っていこうと思う。毎日アルコールで、適当に書くしかなかった。

5月5日(火)
今日は、朝に出かけなくていい。しばらく休んでいた、「樹雨屋」を今から推敲しようと思う。7時になったら観音様の鍵を開けて、昨日置いてきた軽トラを取りに行かなければ。
結局、今日も、下仰木の祭の後片付けをした。

5月6日(水)
朝から樹雨屋を推敲していた。昨日「言語にとって美とはなにか」を読んだせいで、文章が素直に書けない。像を結ぶ文章を意識するとダメだ。そんなことはわかっているのだが、進まない。というより、像が浮かんでこない。ほっぽり出して、別の作品を書こうかとも思う。でも、今は、コツコツと書いていくのが最良の方法というか、それをしないで逃げ出しても、また中途半端になってしまうのだろう。今日はまだ腰が痛いし、かかとも痛い。田んぼもしなければならないし、できることだけをやっていこう。

5月7日(木)
今日から仕事。今日は、午前も午後も出勤する予定。資生園の皆さんはゴールデンウイークも仕事の人が多かったんじゃないかな。動物にせよ、植物にせよ、世話をするのに休みはないのが基本。まだ植物の方が余裕があるかもしれない。酪農とかは、もっと大変だろう。
昨日は、私設編集者と編集会議。またいっぱい指摘してもらった。それと、樹雨屋第三章の催促があった。締め切りは来週の土曜日。今日は朝の4時半から起きて書いていた。本当はペンで下書きををして、ワープロで打って、推敲して、アップできればいいのだが、そういうきちんとしたことができない性格なので、今回も書きかけのメモを固定ページにアップして、書き直し書き直しやって行く方法をとる。いつか完成するといいのにと思う。この締め切りの催促が効果的だったらいいなとおもっている。

5月8日(金)
今日は午後出勤。資生園へ行く前に竹を日吉台へ運ばねば。

5月9日(土)昨日の夜から、今日の朝7時から12時50分までかかってしまった。昨日のシイタケ日記。途中で何度も放りだそうとしたけどなんとか書き終わり、固定ページで公開できた。シイタケ日記、シングルカットその2。読んでください。疲れた。
今日から、ノートを使うようにした。iPadとノートの違いはメモ。iPadでは知らないうちに文章を作っている。ところがノートはページをとばしてもいいし、固まりでメモができる。iPadより立体的に記録できる。気取って言えば、脳の構造のように、または、像の形成のように。ブログも近況報告ばかりになっている。書き止めておきたいことにぶつかっていないのかな。
今日は漱石を読んだ。コジャックで。

5月10日(日)
痛風の痛みが少し和らいできた。今日は、1日トラクターに乗っていないといけないかな。周りの田んぼはほとんど田植えが終わっている。もう、ここまできたら、居直るしかない。長靴に穴が空いているので、ホームセンターが回転するまでは、小説を書いていよう。
9時過ぎまで〈樹雨屋〉第3章をいじって、アヤハへ行った。長靴と、麦わら帽子を買って、携行缶に軽油20リットルを買って田んぼへ、そこから2時50分までトラクターに乗っていた。乗っているのが仕事。でも、お昼だと思って、トラクターを降りたのが、こんな時間だったので、コメダ珈琲で昼ごはんと執筆。そしてコジャック。吉本隆明を車から降ろしたので、昨日も今日も、漱石の「道草」を読む。太宰はこの文章に憧れたのだろうな。ということは分かるが、人として、ぼくは太宰治が好きだ。以前誰かに聞かれたことがある。僕がつかこうへいを好きと言ったら、なんで?と問われて、やさしいからと答えたことがある。漱石のやさしさがやっとわかるようになった。若かった頃は、太宰治やつかこうへいの偽悪的な言い回しが好きだった。
そして、6時から森林組合の理事会。宴会が終わって、11時。明日は、7時半に交通安全週間の立ち番。

5月11日(月)
7時半から8時10分まで黄色い旗を持って、交通安全のアピール。それが終わってから、コメダ珈琲で「樹雨屋」を書いて、田んぼ。トラクターに乗って、資生園。それが終わってから、広報の配布。
今日考えたことってなんだったのだろう。今日トラクターに乗って水田を耕している時に。シギが慌てだした。昨日も今日も田んぼの電線の上から、ぼくの耕しているのを見ている鷹がいる。オオタカなのかと聞かれれば、そうだと答える自信はないが、鷹の種類だろうと思う。確実にトンビではない。その鷹、今日はカラスに襲われた。別に逃げ出したわけではないが、追い返すことはできなかった。両者の対決が始まるとキアシシギが慌てて集まりだした。僕の耕している田んぼに近くのキアシシギがかたまって騒ぎ出した。鷹はちょっと離れながら、攻撃しないでカラスから逃げる。逃げて行ってしまわない。鳥や、花や木の名前がすぐにわかるような大人になれたらいいなと思っていた時があったが覚えられなかったなと考えた。
コメダ珈琲へ行けば、「樹雨屋」第3章が書けると思って出かけたのに、書けなかったので、ウェビングをやってみた。うまくいった。困った時はウェビングだなと考えた。青空物語も少し書いた。連作広島、あんなに毎日書いていたのに書けていない。「樹雨屋」優先は守りたい。

5月12日(火)
コジャックでお風呂に入って仕事の疲れをとってコメダ珈琲へきたら、青空物語の小学校三人娘の奈美ちゃんのモデルの子から電話があった。
「先生、ブログ読んでるで。今日は更新されてなかった」
嬉しい。ちゃんと読んでくれているんだ。中学校の様子とかを聞いて電話が終わった。他人からうらやましがられるのはこんな時だ。忘れずにいてもらえるのが嬉しい。教職についたから味わえることだ。こんなこともあった。パチンコをしてると、「先生」と声をかけられて、「今、何してる?」「介護の仕事、先生が動けんようになったら、車椅子に乗せてここ連れて来たるわ」そんなやりとりも嬉しかった。この前、ブログに書いたかもしれないが、県道でトラクターがオーバーヒートして冷ましていたら、「先生、どうしたん?」と農機具屋さんに勤めている子から声をかけてもらったのも嬉しかった。

5月13日(水)
今日は10時から、市民センターで学区民会議の役員会がある。今日は田んぼへ行かずに、朝から「樹雨屋」を書いていた。もうすぐ出かけなければ、結構忙しい。
昨日の奈美のモデルにしている子から、小説を書いていると言ったら、デビューはいつするのかと聞かれた。まだ作品を一つも完成させていない。完成させて、応募してそれが通ればデビューだと答えた。完成させなければ。必死になってもかけるものでもない。適度のプレッシャーを与えてもらうと、その気になれる。これを公開できて、よかった。作ってくれたkobayashiくんに感謝している。
小川珈琲で書いて、家へ帰ってきた。シイタケ日記も、ブログも書いてから。もう、酔っ払っているが、重要文化財の千手観音のお堂にも鍵をかけてきた。酔っ払いながら、「樹雨屋第3章」もかいた。「変に、今夜の風はざわつくぜ」誰のセリフだったのだろうう。こんな季節の台風のぶり返し風。今後、体験できるかどうか分からない。電線を揺らす音を久々に聞いた。なかなかいいものだ。

5月14日(木)
昨日の夜、太宰治全集を枕元において、「晩年」の中の「道化の華」を読んだ。付録に川端康成から芥川賞に入れなかったことの手紙があった。受け入れない、既存の作家。でも、作品が生き残っているのは太宰治の方で、石川淳の方は探すのが難しいぐらいだ。ノーベル文学賞のこともあるし、文学というのは、本当は個人的なものかもしれない。お昼になってしまう。資生園へ行く準備。

5月15日(金)
シイタケ日記は書いたのだが、こちらを書くのを忘れていた。

5月16日(土)
今週も、田植えができなかった。みんなに乗り遅れて、毎日毎日焦っている間に一週間が過ぎた。周りの田んぼはほとんで田植えが終わっている。今日と明日で準備をして来週のうちには植えてしまいたい。植えて仕舞えば気持ちが楽になることはわかっているが、車検に出した軽トラが帰ってこない。代掻きに使う材木がない。機械を借りる手続きに戸惑っている。そんなこんなことを理由にしているうちに時間が過ぎていく。
昨日、kobayashiくんとホームページのリメイクについて喋っていた。もっと小説の方を読んでもらうにはどうしたらいいか。なかなか結論は出なかったが、近いうちに手を加えたい。でも、何よりも書き上げることが第一の目標。固定ページ(メニューに並んでいる小説)へのアドバイスや感想を聴かせてください。メールアドレスはcocoronoel0723@gmail.comです。
火曜日に電話をくれた奈美(青空物語の劇中名)ちゃんが言ってたんだけど、「〈青空・空間〉って何、なんかたのしそうだけど」
そう、楽しかった。下阪本小学校の青空学級は本当に楽しかった。それが、その楽しさが「青空物語」を書かせているエンジンというか動力源(どうりょくげん)
「中学生トリオって誰?」
あの3人。一人一人違っていてそれでも、印象としては3人組の印象が残っている。今、第14話で中学生トリオは柔道をやっている。
ピッピは誰々、シューは誰々、正臣は………そんなことを電話で喋った。
これを書いた後、kobayashiくんのところへ行って、石窯を見せてもらって、「時間があったら、ホームページのリニューアルをしないか?」と言われて、やってもらった。今日から、リニューアル開店。友だちっていいもんだ。

5月17日(日)
ちょっとなれないけど、新しくなったフロントページ。写真を一枚探してこないといけない。何か探してこよう。
リンクという言葉をいつの間にかぼくたちは使っている。いつ頃から当たり前に使い始めたかわからないが、よく使う。このページを書き込むとき、最初は少し悩むが、1文字書き出したら、頭というか脳がさまよい始める。過去に行ったり、現実を見つめたり、空想したり。今週は、ちょっと過去の方へ行って書いてみようと思う。
固定ページで書いている「青空物語」というのは、昨日も書いたが、「青空」という学級とリンクしている。
「青空物語」の第4話ー青空会議ー、第7話と第8話のーマサコさんの別荘ー、第11話ー清掃活動ーなんかは副題を考えていて、なかなかうまくかけない時に、「青空」でやっていたことを振り返って、たとえば「青空会議」時間割からそのまま持ってきたし、「マサコさんの別荘」は雪国教室から持ってきた。清掃活動は一週間か2週間に一度、学校の周りのゴミ拾いから持ってきた。
「青空」の「青空会議」は月曜日の1時間目と、金曜日の1時間目に開いていた。今日の司会、黒板、ノートは誰がやるかというところから始まる。司会者に決まった児童は
「今日の司会は高木雅治(仮名)、黒板は児玉頼子(仮名)ノート係は高坂祐一(仮名)です。よろしくお願いしますします」から始まる。
「近藤さん(仮名)今週頑張ってみたいことを言ってください」
司会の人は指名するのと、うまく発表できない子の発表を引き出す役です。
「算数をがんばりますか?」「漢字をがんばりますか?」「給食の後片づけをがんばりますか?」「分の成り立ちくんを頑張りますか?」十数人の学級だからできたのでしょう。1人や2人の学級ではできないし、30人の学級では、時間がかけられないし、相手のこともそこまでわからないし。司会と発表者以外の子がだれてくるし。
黒板係の子は黒板に今週の目標、近藤さん、何々を頑張る。と書いて、ノート係の子は黒板に書かれたのを青空ノートに写して行きます。リンクという言葉には接続するの他に総合するとか繋がるとか、絆、輪、環などの意味があるそうです。今思えば、そんな意味で「青空会議」は「青空」の人間関係を作っていってくれていたのかもしれません。
今週は、過去というか、学校に勤めていた頃のことをちょっと粉飾して、自慢話っぽくして書いていきます。

5月18日(月)
昨日やっと田植えの準備が終わった、今週中にできるといいな。
今日は、昨日ちょっとだけ出てきた「文の成り立ちくん」という授業について書きます。
三浦つとむという言語学者?が「日本語はどういう言語か」という本を書いています。その人は独学で色々研究して本を出したことでも知られています。
その本の中に、文法なんてものは、その言語をマスターする時に必要なもので、日本語を喋っている、日本人に日本語の文法がそんなに必要ではないというような意味のことが書いてありました。
「文の成り立ちくん」の最初はそれこそ、日本語文法を子どもたちに身につけさせようということから始まりました。5W(だれが?iいつ?どこで?だれと?何を?した)をマスターして、簡単な文を作り、書き、発表するというパターンの学習でした。
「文の成り立ちくん、文の成り立ちくん今日の文は何ですか」子どもたちが大きな声で唱(とな)えて授業が始まります。文の成り立ちくんの教師が「今日の文は、だれが?どこで?だれと?何をした。です」黒板にフラッシュカードをはりつけて文の構造を発表します。子どもたちは思いつくだけノートに書いていって、発表します。それを板書していくという授業でした。始めた頃は「青空」の人数も少なくなんとかやっていましたが、人数が増えるにしたがって言語認識の差もあり、難しくなって、しばらくやっていなかったのですが、研究授業をしなければならないということになり、「文の成り立ちくん」を引きずり出してきました。学生時代に読んだ、三浦つとむ、時枝誠記、吉本隆明、大野晋の言語に関する本を読み返しました。そこで、文法とかよりも、もっと認識の部分、言語が発生した頃まで遡って考える。「うー」と誰かが発声し、その時に、その近くにいた人たちが、目の前に大きな海が広がっていて、「うー」と発生した誰かの感動が周りに伝わって「海という言葉ができた。ずっと前にブログで書いた狼に育てられた子どもに牛乳という言葉を教えた学者のエピソード(牛乳を与える時に、牛乳という言葉が言えたら牛乳を与えるというような取り組みを繰り返したが、効果なく、その子どもは、牛乳を飲んだ時初めて「牛乳」と美味しそうに発音した)もその時読んだ。
「文の成り立ちくん、文の成り立ちくん今日の文は何ですか」と子どもたちが唱えると分の成り立ちくんは
「今日の文を発表します」と言って板書する

ぼくの家では、おなべに、ネギとブタ肉とキムチを入れてキムチなべを作って食べます。

1センテンスずつ書いて、みんなで読んでいきます。身近なものか、突拍子も無い空想とか、出来るだけ頭の中に像が浮かびやすい例文を作ります。これが結構大変です。というか、この例文で授業が生きたり、死んだりします。できた人から発表していきます。書いてから発表したりするとダレることがあるのでここの場面はできるだけテンポをあげて、やっていきます。発表された文は、誰かを指名して読んでもらいながら板書していきます。読む自信がついてきた子を指名することにしていました。子どもたちの成長は一人一人違います。伸ばすタイミングということも考えて指名します。
そして、「ぼく」、「ネギ」、「ブタ肉」「キムチ」の文字を黄色のチョークで囲みます。黄色のチョークで囲まれたところを自分なりに考えて、思いついた子から発表します。全員発表です。
全員が発表したら、もっと文を思いついた人が発表します。20個ぐらい発表したところで、「分の成り立ちくんビンゴ」の用紙を配って、九つの枠(わく)に発表された文を選んで書いていきます。一文全部を写すのが理想ですが、能力に合わせて、どの文かわかるようにすればいいのです。ビンゴはあみだくじでやります。黒板の左半分に上段に今日の文のキーワードを書いて、そこから、一本ずつ直線を引いて、その先には子どもたちに数字を選んでもらって書き込んでいきます。
1文に一個の数字を書いていきます。23個の文があれば、それぞれの文の下に1から23のどれかの数字が割り当てられます。あみだくじを開けていく順番お数字です。みんなの発表が終われば、横棒や斜め棒、それに線をまたいで乗り越えていく棒なぞを書き込み、1から順番に開けていきます。結構熱が入ります。「湯豆腐(ゆどうふ)行け、行け、行け。あ〜」という調子です。リーチの声が上がれば、その子の待ちワードに注目が集まります。全員のビンゴがそろえばそれで終わりです。結果発表をしておしまいです。「青空」になんらかの理由で居候(いそうろう)をしていた子もそれを見ていて、参加してきました。これも、絆、輪、環の意識を高められたかなと今でも思っています。文字とか言葉だけでなく知識だって、出してしまえば次に何かが生まれる。これが、言葉が伝達だけの役割を持っただけのものでなく、言霊(ことだま)と呼ばれたりするような、上部構造の精神作用を揺さぶっているのだなと思います。今日はここまで、明日も何かを思い出しながら書いていきます。自慢げに。

5月19日(火)
今日は何を書こうかと考えていた。料理、一番初めにお店の授業をやったのは仰木の里小学校の「元気学級」新設校の2年目に特別支援学級ができた。その担任になった。初めての特別支援学級の担任。児童は1名、設備は整っている。キッチンとトイレはあるし、教室も2つある。大型タイヤのチューブと掃除機でホバークラフトも作った思い出がある。楽しいことをやるには、世の中すべてそうだが、お金がいる。お金を稼ぐには、食べ物屋とその頃は決まっていた。給食がきれる夏休み前とか、冬休み前に教職員に食券を売って、料理をこさえて食べてもらう。活動としても、食券作り、食券を売るセールスの体験、お金の計算、買い物、調理、接客、たくさんの活動が転がっている。
仰木の里でやったのは讃岐うどん、うちの奥さんの実家が香川県なので、実家に頼んで、うどんを買って送ってもらう。あの頃教職員は20人をちょっと超えていたと思う。牛スジを煮込んで、牛スジワカメのうどんを作った。あの頃、きれいな教室で、畳を敷いて、机を置いて、和風の店。マミ(仮名)ちゃんは四年生、いつもニコニコして、争いごとの嫌いな女の子、隣の保健室の鈴木(仮名)先生に手伝ってもらって3人でやった。計算してみると儲けは二千円ぐらいだったろうか、それで、作品展の材料とかを買ったと思う。
そして、次に行った学校は伊香立小学校。「なでしこ学級」。ここは児童が3人担任が2人。ここでは、お店の内容を拡大できた。その頃は土曜日が隔週で休みだったので、月に1回お店をやった。注文を取った。例えば、
「今月は、焼き魚定食です、鯖、カレイ、シャケ、ホッケ、どの魚にしましょうか」という調子だ。自然が豊かだったので、ムカゴごはんを炊いた時もあった。おでん定食も注文を取った。ここもあまり稼げなかった。材料費がかかりすぎた。
そして、下阪本小学校「青空学級」では教職員がどんどん増えていった。児童も増えていった、担任も増えた。保護者や兄弟も呼んで、大型レストランというところ100食ぐらい作っただろうか。
夏休み前はカレー屋、冬休み前はおでんや。麻の暖簾も染めた。カレーも牛、豚、チキンから選んでもらった。おでんの具もどんどん増えて、最終、20品ぐらいになっただろうか。業務スーパーなど、材料をケチったので儲けは結構あった。作品展の材料の他に、卒業生への手作りのプレゼントを作る材料費にまで回すことができた。材料を安く抑えたので、調理に手間をかけた。
こんな授業のぼくの原点は、葛川小学校で六年生を担任した時の調理実習だろう。家庭科室と理科室兼用のちょっと暗い、アルコールランプの臭いのする教室で、6人の児童がそれぞれ、お母さんから聞いてきた作り方と材料を持ってきて、それぞれの料理を作る。ハンバーグの子もいたし、焼肉や、焼きそばのこもいたのだろう。あまり覚えていないが覚えているのは鯖の味噌煮。
カオリちゃん(仮名)が教えてもらってきたのは、鯖の味噌煮、みんなびっくりした。そんな料理子どが作れるのかみたいな驚きと、もっと子どもらしい簡単で美味しい料理をなんで選ばないのかという驚きだったのだろう。
ご飯と味噌汁は、みんなの分を作る。カオリちゃんは一番時間が掛かった。でも出来上がって食べている時、全員が美味しそうだと口にした。今日の自慢話はこれで終わり、今日は雨なので、資生園は午前中に行って、午後からは映画を見に行くつもりだ。私設の編集者と、シルバー料金で。

5月20日(水)
体がだるい。水、木曜日頃は疲れがたまる。
初めて授業で陶芸をしたのは葛川小学校の時だった。その前に、日吉台小学校のクラブ活動で野焼きをしたことがあったがやり方もちゃんと確かめずにやったものだから、枯れ木が燃えてくるとパンパン音がして、冷ましてみたら土器はほとんどなくて、破片ばかりだった。それでも、その破片を叩くと陶器の音がして、子どもたちは感動していたことを思い出す。
葛川の焼き物は、一年生と二年生の合同の図工。一年生3人、二年生1人担任二人で何かの訪問があった時の公開授業だった。「動物の土鈴を作ろう」という授業。まず、丸いビー玉より少し大きい球を粘土で作って、それを新聞紙で包んで、その上に粘土を被せて、パンダ、ウサギ、クマ、ライオンの顔を作る、そして中の玉が落ちない程度の切れ目を入れて、灯油がまで焼き上げる。葛川へ移り住んだという、若い陶芸家の人に教えてもらったりして、粘土の空気を抜くことや、水分を飛ばすための陰干しのこととか聞いていたので、なんとか少し欠けた程度に焼き上げられた。でも温度をあげ切る技術がなかった為いい音はしなかった。
日吉台小学校へ変わった時は七輪焼きをした。七輪焼きは七輪を二つ合わせて、上の七輪の底に穴を開け煙突を付ける。炭を起こしてその上に作品(ビー玉やハート、動物などのブローチの小物)をその上に置きゆっくり温めて行って、温まったところで炭を加え、もう一つの七輪をかぶせて送風機で風を送りながら温度を上げていく。温度は800度以上になる、そして冷まして素焼きの完成。陶芸用絵の具で色ずけをして釉薬を塗って本焼き。これにはぼくも感動した。初めてうまくいった。卒業生の人数分のペンダントを作って、卒業プレゼントにした。アイデアは信楽へ行って見つけた本だ。信楽へ行くと授業のアイデアが転がっていることがある。
伊香立しょうがっこうへ行ってからは、ドジョウの文鎮、ちょっとそれらしい物になってきた。それを卒業生のプレゼントにしたし、焼き物をやめて藍染に挑戦して、ハンカチを作ったこともある。次に、粘土細工が得意な、すごい才能を持った一年生の男の子が入学してきた。その子が粘土で埴輪(踊る人)を作り、これは結構大きいので、これも、信楽で見つけたアイデアだが、藁と籾殻を使っての野焼きをした。セメントのブロックを5個地面に敷いて、空気が流れこむように隙間を空けて、その上に木や竹を並べて床を作る。木や竹の上に藁をバラして敷き詰めその上にカントリーエレベーターで貰ってきた籾殻をゴミ袋一つ分程ぶち撒け、四方に藁の束を置く。これは
もみ殻が流れ落ちないように、そしてまた籾殻、そのあたりで埴輪を籾殻の中にさらに、藁、籾殻とピラミッドみたいに高くしていく。それから、四隅に、新聞紙を絞り火を点けて差し込む。火が燃え出すと、まずは表面の籾殻が黒い炭になる。この角が温度を閉じ込める。中の火は、籾殻の中にある空気を使って燃え続ける。800度ほどの高温まであがる。一晩ほっておくと次の日は素焼きが出来上がっている。それに釉薬をかけて、本焼き。これはほとんど失敗がない。
下阪本小学校では野焼きができないので、葛川少年自然の家で泊まり込む、雪国教室で野焼きをした。電動ロクロを使って茶碗やぐい飲みも作った。ぼくはその頃は近所でロクロを教えてもらったこともあり、信楽へ粘土を買いに行って、菊練りもできるようになっていた。ロクロに土台を乗せてやると、子どもたちは上手にそれを使って作品を作った。マンネリ化を打破するのは、結構楽しい。うまくいけばの話だが。やっぱり、「足で書く」という宮沢賢治の言葉だろう。行き詰まったらその場所を離れて、動き出すこと。足が動けば、目や鼻や耳よ手も動く。そして脳も動く。脳は悩みを常にフィードバックしているから、悩み解決のヒントを見つけてくれる。そんなことで、教師生活を続けてきた。おかげで小説家になりたいという夢は後回しになってしまった。

5月21日
今日は算数のことを書こうと思う。ぼくは小学校の頃から算数が好きだった。多分繰り返さなくて良い教科だからだったのだろう。小学生の頃、漢字の書き取りや、本読みの宿題は本当に嫌だった。漢字を何回も書くとか、同じ文を何回も読むのが嫌だったのだろう。算数は1つの問題を解けば次の問題へ進める。だから苦では無かった。
広島の府中小学校に勤めた時、3年生の担任になった。研究部会は算数部に入って、「水道方式」という言葉を初めて聞いた。「水道方式」というのは算数の指導の仕方で遠山啓という人が中心になってやっている研究グループだ。学生時代に吉本隆明の文章で「遠山啓という先生が、東京工大で集合について講演するので友達の奥野健男と一緒に聴きに行った」という文章を読んで、遠山啓という名前を知っていたので何冊か本を買った。
その本のどれかで点図というものを知った。点がズラリと並んでいて、どの点でもいいが一つの点を選んでそれを原点にすると縦横斜めに→をつけて縦には高さ、横には横斜めには縦という字を書き込んでおく。立体を書くことができる。三次元の座標だ、それで、直方体を書く、横5センチなら原点から横へ5個の点を結んで直線を引く。縦10センチだったら斜めに10個文直線を引く原点からも同じように斜めに10個、その先と先を結べば底辺が完成する。そこにできた4つの頂点から高さ3センチ、4本の直線を縦にのばす。ここまで描けば平面図が立体図に変わる縦に伸ばした線の先を結べば直方体の完成。その出来上がった直方体を開いていく。まずは手前の面をパタンと手前に開き、右と左の面を右と左に開き、奥の面を開くと上の面がくっついて立ち上がった形、それを最後に向こうへ開いて展開図が完成する。開き方を変えれば、4つの展開図のパターンができる。平行や垂直、縦横高さ、面と辺、いろんな概念を作図しながら知ることができる。結構子どもたちは熱心に取り組む。どこの学校、どこの学級を持った時も点図のプリントを用意して使った。それと、正多面体の展開図、正四面体から始まって、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の展開図を花子で作図して使ったこともある。しばらく算数を続けよう。

5月22日(金)
算数の好きな人は、解(と)くことが好きなのだろう。例えば、知恵の輪とか魔法陣とか、迷路とかもつれた紐とかそれを解いた時の快感みたいなのが忘れられないのだろう。同じ半径で同じ高さの円すいと球と円柱の体積の比は1:2:3になると聞くと、体積を求める公式を書いて約していくとなるほど1:2:3になる。アルキメデスが自分が一番気に入った発見なので、それを墓にしたという。球と円柱は表面積も体積と同じく2;3になるという。それを、アルキメデスの原理の発想と同じ発想で水に沈めて、増えた水の量を観察すると一目瞭然だ。そんなことから算数好きになることもある。モヤモヤを解いた時の快感とじゃあ他の方法で解いてみるかという意欲ともう一つ。誰よりも早く解きたいという気持ち。大学生の時、喫茶店でマンガを読んでいると、1人が「灘中の入試の問題だ」と証明問題を出す。みんなで取り組むが解けない。「できた」という奴がいるとみんなの手が止まる。出題者がチェックしてだめだというとみんなホッとする。
中学一年生の時の担任の先生の数学の授業がそんな授業だった。多分、みんなが授業に飽きてきたのを感じて、難問を出して気分を変えたのだろう。
下阪本での算数の授業は、プリント学習が主となる、一人一人の課題は違う。朝、学校に行ったらすぐにプリントの用意。一人一人のクリアケースにはさむ。算数の授業が始まると、すぐに取り組む子もいるし、いやいやながめている子もいる。いやいやながめている子からアドバイスをしていく。アドバイスは解き方を教えるよりも、教具を与える方が多かった。百玉ソロバン、ドミノ、計算機、九九の表・・・。それでも、みんな取り組んでいるのだが、気持ちが停滞している時は「いきなり文章題」と言って、みんなを黒板の前に集合させて、文章題を読み上げる。
「広場で男の子が5人女の子が8人遊んでいました。4人の女の子が帰りました。そこへ男の子2人と女の子6人がやってきました。広場で遊んでいる子どもは何人でしょう」
みたいなのを、黒板に図を描いて解いていく。結構気分転換になって、プリント学習に帰っていく。
子どもたちを算数嫌いにさせる数字って何だろう。「文の成り立ちくん」の時は言語、言葉の発生がけっこうヒントになった。算数の時は遠山啓の本を読んで、分かったことがある。例えば栗の実を手のひらに載せて「何個ありますか?」と問うてみる。人間の目というか、脳は3個までしか見ることができないと書いてあった。手のひらの上に4個載っていたら、脳が「2と2で4」と判断するらしい。8だったら3と3と2で8と計算するらしい。ビー玉でもなんでもいいから適当に握っててを開けてみると、自分が本当にそうしていることが分かる。
数字の表記のことだが、1という数字は一本の縦線、2というのは2本の直線を一筆で書いたものの変形。基本は1本の線、4だったら棒を4本描いて表していた。5までくると段を変えて5と1で表す。基本形が知られているが、3で区切っていたところもあったらしい。指を3本立てて「これ、何本?」と聞いた時に、「1、2、3」と数える子がいたら、合わせていくつという学習をする1と2と3の組み合わせのたし算、これを繰り返す時間が必要になってくる。人間が1という概念を見つけてから、2が登場するまでにすごい時間がかかった。3が登場するまでにはもっともっと時間がかかった。その後は、続々と登場してくる。1と2の間のハードル、2と3の間のハードルを乗り越えさせる支援の方法ははっきりしなかったが、気長に待っているといつかそのハードルを越えている。今日の算数についての話はここまで。疲れた。今日は、資生園の仕事がなくて休み。

5月23日(土)
今日は、待望の田植えができました。うちの田んぼの周りの田んぼは、全て終わっていて、すごいプレッシャーだった。「逃げ出せたらいいな」それは物語だけの世界だから言える。本当に逃げ出したら、本人は無になってしまう。太宰治だって、三島由紀夫だって、伊丹十三だって、みんな知れてると思う。逃げ出す理由なんてすごく感情的なものなんだと思う。僕が、今あげた3人、川端康成を加えてもいい。太宰治いがいは、みんな逃げ出すというより、限界だったと、ぼくは思う。自分のことを自分が一番知っているとというタイプだったと思う。だから、取り上げている記事があっても読まない。でも。太宰治は違う。なぜ書くのか?復讐。そう書いたのが「晩年」というデビュー小説。今日は、田植えの終わった、次は傍点が打ちたいほどの、解放の日、やっと自由になれる。百姓はとってもプレッシャーが多い仕事だ。

5月24日(日)
今日は夜に森林組合の総会がある。午前中には親戚の法事。こういうものはいつまで続くのだろう、いつから続いているのだろう。結構忙しい。忙しいからその合間をぬってブログと書くとあまり考え込まずにかけるといういいところもある。
今日は雨だと聞いていたのに雨が降らない。田植えが終わったのに水がない。雨乞いでもしたいぐらいだ

5月25日(月)
きのうは蒸し暑かったが、雨は降らなかった。昨日は法事と総会の後の打ち上げ、2回もアルコールが入った。痛風が心配。法事の時に「食品衛生管理者資格」の講習を受けようと同級生に話し、彼もその気になった。検索してみると、6月23日、大津プリンスであるみたいだ。受講料1万円。今日中に連絡しなければ。
今日は、松岡満運輸へ行く日だ。
今週は何について書こうか。そのうち、何かに引っかかり、それを一週間ぐらい続けてかけるのが良い。今日は多分、シイタケ日記に時間がかかるだろうから、今日は無理だ。
シイタケ日記も明日に先送りした。今日、ぼくが行動したこと。①大津広報を各組長さんへ配布依頼。②「樹雨屋第3章」ちょっと執筆。③食品衛生管理責任者資格の手続き、の調べ物。④洗濯。

5月26日(火)
今日も結構忙しくて、今9時30分やっとこれを書いている。朝、草刈り、それが終わってから、稲の苗が入っていた箱80枚とトラクターの泥落とし、JAへ箱を返して図書館へ、樹雨ノートをせいりして資生園へ、それが終わって、私設編集者とコメダ珈琲へ。コジャックで風呂に入って、8時から会議。やっと帰って来てこれを書いている。忙しい1日だった。明日も忙しそうだ。

5月27日(水)
もうすぐ、草刈りに出かける。その後、畑に回って、昨日、資生園でもらって来た菌床を畑へ運ぶつもりだ。図書館へも行きたい。

5月28日(木)
今日は堤防の草刈りができた。草丈が伸びて、大変だと考えていたが、草の密度が薄くて案外簡単に刈ることが出来た。でも、一週間ほどかかるだろう。草刈機のタンク一杯分。一時間半ほどやった。その後、市役所へ河川愛護の計画書を届けに。ホッとした。今回の担当者の人は優しい感じ。提出締め切りは過ぎているのに嫌な顔もしないで対応してくれた。

5月29日(金)
今日は、午前中にアストへ行かなければ、友だちとぼくの受講届けを持っていかなければ。図書館も。6月23日に認定講習を受けることになった。受講料は一万円だが、食費も含まれている。この資格をとることによって、居酒屋ができる。喫茶店ができる。屋台ができる。そんなのを営利を目的としないで開けたらいいなと思う。むかし昔だが、東京へ出張したことがある。田部井淳子さんが講演を聴いた。仰木のの里の小学校で文部省(当時は、文科省のことを文部省といった。科学が抜けている)の中間発表に行った。3年ぶりぐらいの東京だったと思う。市ヶ谷自衛隊の近くの滋賀県が持っている保養所見たいところに泊まった。そこが集合場所で、街にジングルベルが流れている季節だった。ぼくは1人で行動していた。よくわからないが、高架下のおでんの屋台で一人飲んでいた。市ヶ谷までは帰ってきたのだが、保養所へ入って、メンバーと顔を合わせて、自己紹介するというのかは嫌だった。高架下の屋台は、外に椅子が並び、男二人連れと女の二人連れがいた。男の二人連れが女の子に話しかける。女のこは屋台の店主が目当てで来ている。屋台が何日もそこに出ずに心配していたみたいだ。店主は退院したばかりみたいだ。大学生の頃、栃木から広大に来ていたやつと同じような訛り。女の子たちが帰った。店主に挨拶して。男連れにも「ごちそうさま」と言って。男連れは逃げられたタイミングで、すぐに立ち上がれなかった。女連れはしたたかというか、男連れが追ってこないタイミングで立ち上がった。男連れはちょっとテンションをおとして、「マスター、おあいそ」と言った。四万いくら、帰ってきた金額に二人はびっくりした。しぶしぶ払って帰った。ぼくもびっくりした。屋台のおでんで四万円。その後も、女客がよっていく。「退院おめでとう」とか、「もう、大丈夫か」とか、いわゆる町の名物のおじさんみたいだ。ぼくは支払いのことが気になってドキドキしていたが、「どう、これ」とか声をかけられて、注文して、酒も注文していた。だいぶ酔っ払って、客もいないので、ずっと二人で世間話をしていた。おあいそは五千円もなかった。ぼくはホッとして握手をして帰った。高架を上がったところに保養所があった。市ヶ谷駐屯地は三島が割腹自殺をしたところだ。あのおじさんはどうしているのだろう。

5月30日(土)
今日は、比叡山のトレイルランニングがある。全国から千人の人が参加するらしい。山あり谷ありを50キロ走るそうだ。参加する人にも資格があって、30キロマラソンを完走していなければならない。戸井十月の小説で、秩父の山を走り回る行者が出てくる話がある。今日、読み終わった東直己の「残光」に登場する榊原健三もそんな男だ。「樹雨屋」のネズミさんもそんな男だ。若い頃、ガリバー村でキャンプをして、子どもたちと一緒に八つ淵の滝見学に行ったときに毎日この山の中を全力で走ってみたいと思ったことがある。一回やったらやめられないのだろう。そこの交通整理、つまり道案内ってところだ。
今日のトレイルランニング。結構待ち時間が多かったのでiPadで書いていたメモを載せます。
トレイルランニング。全長50キロ。檜の林。11時前にやってきたが誰もこない。い。揃ったのは11時半ぐらい。
一位が通過したのは1時12分。その後15分くらいして2位が通過そのあと1分ぐらいの間隔2位
残光を返して次の本を借りた。隆明のインタビューも河合隼雄の琵琶湖にクジラももう一冊はなんだったけ。こういうことが多い。図書館へ行った時もそうだった。小川珈琲で考えていた時は、2冊だったが、図書館へ行くと一冊が思い浮かばない、樹雨屋に登場させる川上に関する本だった。今も思い出せない。もうすぐ選手がやってくるはずだ。高校生の時の琵琶湖マラソンのスタッフのことを思い出した。1時35分5人通過あと九百人はいる。トップから2位が15分ほど遅れて通過。そのあとは1分ほどの間隔。そこでまた差が開いた。まだ900以上の人がこれから来るのだろう。
2時22分30人ほどの通過か。連続してくる。雲が出てきて、風も出てきた。走っているわけじゃないけど、過ごしやすくなってきた。
雲が厚くなってきた。鳥の声も聞こえない。通過する虻の羽音。遠くで仰木太鼓。ジェット機の音。
分かれ道にいるのだが、選手が来たら立ち上がって、拍手をしているが、選手が通過したら座る。今まで立って送った最高人数は4人。2時50分の時点、50人は通過しただろうか。服装に偏りがないというか、トレイニングウェアの人が少なく普段着の人も多い。隙間が埋まってきた。座って書くヒマがなくなってきた15時。
6時を回った。まだ最終の人はこない。予定では4時半最終通過だった。
6時を過ぎても何人か通過していく。最後の人が来て、後片付け、終わったのは7時半。

5月31(日)
今日は八坂神社の湯立て祭がある。八坂神社と言っても、京都の八坂神社ではない。地元の八坂神社。9時半から準備。せっかくだからちょっと写真でも撮ってこよう。
昨日の比叡山トレイルランニングのことをもう少し書こうかと思ったが、書けなくて今日は終わった。
10時に自治会館へ行って、湯たて祭の準備ををして、コジャックで「言語にとって美とは何か」を久しぶりに読む。第一部の表現転移論が終わり、構成論に入っている。蛮人といえばいいのか、古代人といえばいいのか。彼らは始め、狩猟なら狩猟で、獲物を獲って来た時に、踊り歌い、騒いだ。喜びと感謝を表現したのだろう。そして、それはたやすく、狩りに出かける前に、踊るようになるということは実際そうだったろうと想像できる。手塚治虫は、火の鳥でそんな場面を描く。石ノ森章太郎だって、横山光輝だって、水木しげるだって描く。そして、その踊りは狩りの後ではなく狩りに出かける前に踊りが行われるというのが普通になる。それは、狩りの成功を祈るのか。狩りに出かける人か祈るのか?帰ってきて欲しいと待つ人かが祈るのか?そこから、詩と舞踏と、劇と器楽と、歌と、詩が生まれてくる。というか。発生してくる。これが表現の原点だったのだろう。僕は言葉でないと表現できない。ぼくは絵でないと表現できない。ぼくは音節と音階でないと表現できない。そして、それはずっとあとなのだろうけど映像でと。
そういう狩猟なり、農耕なりを始める前の祭礼から踊りをとった時に詩が始まるといううのは、ぼく好みだ。プラスとマイナスのロジックはやがて真実に近づく。

6月1日(月)
秋には「樹雨屋」を完成させろと言われている。観戦させなければと思っている。それと「青空物語」を毎日書いていく。今週はこれが目標。両方毎日10000文字書くこと。ちょっと無理かもしれないので、合わせて10,000文字で今週はやっていこう。

6月2日(火)
昨日は、青空物語が、2,000文字しか書けなかった。目標設定を変更。1日に、最低でも5,000文字。これぐらいだったら行けそうだ。

6月3日(水)
昨日も2,000文字ぐらいだろうか。今日は5,000文字。さいわい雨が降っているので、河川土手の草刈りを休もう。昨日、kenithiくんのところへ行って、画像の入れ方を教わってきた。iPadで撮った画像ならすぐに入れられるが、パソコンのマウスが壊れていて、カメラで撮った写真が入れられない。松岡満への道中の写真、マウスがなおったら入れよう。
今日は、頑張ったけど、3,000文字ぐらいか。
昨日、奈美ちゃん(仮名)と電話で話した。花火を書いている中学生、書くことが難しいという。そんなことはない。書くことは、じぶんを救うことなんだ。書くことによって、自分が楽になる。それでいいんだ。お金を稼ぐ為に描くのなら別だが、少しずつでいい。自分の為に書き続けていけば良い。

6月4日(木)
昨日はそれでも3000文字くらいだと思う。今日は森林組合の引き継ぎ会。夕方の星が出るまでを観察しに行かなければ。山、海、川、近く、遠く、迷っている(樹雨屋)。昨日、梅雨入りしたかもしれないという報道、雨の情景の観察もしなければ(青空物語)
頑張ったけど、今日も3,000文字しか書けなかった。
今日は、森林組合の会議が7時30分からあったが、その前に、星の観察に行った。まだ日だけが落ちている。空は明るい。多分金星なのだろう。西の空を見ても、東の空を見ても星がなかった時に一個だけ星が見えた。一番星だ。

6月5日(金)
今日は資生園は休み。朝、ゆっくりしている。東直己の「疾走」がやっと面白くなってきた。健三のイメージが「残光」とちょっと変わってきている。探偵の映画第三弾は出ないのかな。昨日、朝の草刈りが終わってから、図書館へ行った。11時前だったので空いていて、「疾走」読んでいたら、眠ってしまった。昼間の10分くらいの昼寝が認知症予防に良いときいた。認知症という言葉が出回っている。言葉って不思議なものだ。〈いじめ〉って言葉はいつできた。「いじめる」とか「いじめられた」とか言っていたけど、それが名詞化されてしまったのはつい最近だろう。生まれた時に、あるいは子どもの時に「いじめ」って言葉があると、ますます、人との繋がりに微妙なところが薄れてしまうようで、大変だなと思う。登校拒否が不登校に換わったことでどうなったのだろう。アスペルガーって言葉もなんか話題になっている。そして、どうなるんだろう。
6月6日(土)
今日は7時過ぎに中学校の時の友だちから電話があって、コメダ珈琲のモーニングを食べた。その後河川の草刈りをして、パチンコをして、二度目のコメダ珈琲へ行って1,000文字書いた。コジャックへ行って、夜は自治会の組長会。土日は小説の方もおやすみでいいか、と思っている。

6月7日(日)
今日は朝から樹雨屋の第四章を書き始めた。月子さんが月の話をする。ムーンライト、セレナーデを使う。今週は第四章と穀雨と青空物語を毎日1,000文字だったらいけるかな。先週は大きな目標を立てて失敗した。今週は着実にやっていこう。
6月8日(月)
昨日は図書館で東直己の「疾走」を読み終わってしまった。探偵シリーズも全部読んだし、榊原健三のその後が読みたい。今日は朝、娘の軽トラでミッション車の練習につきあって、その後、大津広報の仕分けと配布、その途中でセブンイレブンに寄った時にポスターを見つけたので、写真にとって、アップ。それから、樹雨屋の月の話を書いていた。ユーチューブでムーンリバーを検索していたら、オードリヘップバーンがギターを持ってムーンリバーを歌っていた。ティファニーで朝食を。ハックルベリー フレンドという歌詞があった。
6月8日(月)
書くのを忘れていた。というより、結構樹雨屋の立夏を書くことに夢中になっていた。
6月9日(火)
月子さんが動き出した。樹雨屋で月子さんが活躍している。そして、ぼくの頭の中では、出っ歯のネズミ男に似ているネズミさんがどんどんカッコよくなってくる。とりあえず、初めての長編を書くために、努力しよう。
6月10日(水)
今日は訃報が届いた。僕に良くしてもらった、退職教師。今年も、
「すまんなあ、会費」と言って退職教師の会の会費を取りに来てもらった。僕が滋賀県の教員になってしばらくしたら、教職員組合の執行委員長で頑張ってらした。親戚の法事で出会ってもやさしかった。
6月11日(木)
今日のお通夜は7時半から、火曜日に友だちの知り合いからメールが来て、「誰々さんのお母さんが亡くなったこと知ってますか」というので、電話をしたら(その友だちは携帯を持っていない)家族葬だという。この前近所の一人暮らしの人が亡くなった時も、お悔やみに行ったら、身内だけで葬儀をやると聞いた。別に、どんな形がいいとか、悪いとか言うのではない。死にたいとか、長生きしたいとかそんな話をよく、同年代の友だちとは話する。直截的な話でなく、病気とかの話をしていると、そんな流れになってくる。今、ぼくは、そんなことはどちらでも良いと思っているけど、入院したり、目が見えなくなってきたり、足が動かなくなってきたら、どう思うのだろう。ぼくは年を取っても耐えられるものは学問と考えて、みんなにせんげんしている。学問には到達点がない。死ぬまでやれる。死ぬまでやっても、たかが知れている。でも、目が見えなくなって字が読めなくなったら、誰が読んでくれる、誰がかいてくれる。もちろん、誰かがそうなれば、自分が読むし、自分が書くということで、そんなネットワークを作る考えはいいんじゃないか。そんなシステムを作りたいな。作り上げたいな。賛成してくれる人はいませんか。今日はアードベッグを買ってきて、ダブルで3杯ぐらい飲んだ。本当に美味しい。
6月12日(金)
今日は告別式が1時から、資生園は休むことにした。今日の京都から友だちが訪ねて来てくれた。少しおしゃべりをして帰って行った。6月中にまた、京都で飲もうと約束した。しばらく都会へ行ってない。明日と明後日は大阪で集中講義を受けてくると言っていた。アダムスミスの講義だそうだ。そういえばかれは社会の高校教師だった。
6月13日(土)
『よせやい』に書いてあった。子どもは一つ病気とか怪我をすると、それが回復した時、以前より数段強くなっている。老人は病気や怪我をすると回復した時数段弱っている。なんとなくわかる。そうなんだろう。昨日の告別式は友だちからの手紙が泣けた。77歳の同級生からの手紙、「突然、何も知らせずに、行ってしまうなんて………」から始まって、出会いや毎年会ったことの懐古、故人の人柄の良さ、そして、最後に、「……………三分の一は向こうに行っているんだから、ちゃんと迎えてくれるだろう。君も向こうでぼくを待っていてくれ」みたいな内容だった。突然でも長患いでも、一人の死は、残された者だけに、考えさせる。残された者は自分の葬式のことを想像するのではないだろうか。

6月14日(日)
先週は何文字をとか目標にしていたが、そのおかげで、樹雨屋のストーリーは進んだが、文章は丁寧で亡くなった。今週は少し推敲に力を入れようと思う。青空物語はストーリーだが。写真はベトナムの道路。旅行記や広島も編集していこうと思う。
今日は11時から法事。久しぶりに青空物語を書いた。15話をちょっと、ストーリーが動いた。なんでロボットなのか?でも、重さの問題だ。
6月15日(火)
親戚から連絡が入った。今日の7時から通夜、明日の11時、告別式。続いている。
6月16日
先週に通夜があったばかりなのに、昨日通夜に行ってきた。宗派は、浄土真宗。今日は11時からの告別式。ホールの音楽と司会進行の言葉が耳障りだった。自分より若い者の死。きのうの説教じゃないけれど、人間の命はロウソクの灯、一瞬一瞬の炎が連続しているだけで、今燃えている炎は一瞬前の炎ではない、次々と炎を燃料と空気と温度がリレーして行っているので、燃えているように写るだけ。風が吹いてロウソクが消えてしまう。また、燃え続けてロウがなくなって最後まで燃え尽きる。どんな消え方をしても阿彌陀如来は救ってくださる。それは残された者たちへの言葉だ。それでいい。
告別式に行ってきた。生があるだけで、生が途切れた時が死。そして死という言葉は死者はもう関係なくて、生きている者たちだけが考えていることなんだ。今日、無性に腹が立ったのは、司会者の言葉や、音楽。別れ、例えば、嫁ぐとか卒業とか、送別、昔で言えば軍への召集なんかはそれでいい。でも、告別式は違うだろう。間違っている。今日の感想。
6月17日
今日は自治会の境界アラタメ。8時半集合でややこしいところ中心に1日歩き回って、夜は飲み会。
樹雨屋が停滞、スタイルを変えてしまおうかとも思っている。昨日はそっちを中心にやっていた。最近、BSマンガ夜話をYouTubeで見始めた。夜が眠れない。でも、柔侠伝がまだ出てこない。
自治会の飲み会が終わって帰ってきた。
明日は日吉台小学校へ行って、子どもたちと触れ合ってくる。また、そのことは明日か明後日に報告するつもりだ。
6月18日(木)
日吉台小学校へ10時ぐらいにいって、長休みまで、職員室で喋っていました。長休みになって、四年生の担任の先生と打ち合わせ。総合的な学習の時間で、日吉台小学校の七不思議を取材して、新聞を作るんだという話。日吉台小学校の昔のことを知っているということで、僕に白羽の矢がたった。打ち合わせで、①中庭の池②運動場の土手の日吉台マーク。③
オレンジ色の体操服。の質問が来るそうだ。
3時間目が始まって①のインタビュー、四人の子が校長室にはい行ってくる。ちゃんと挨拶をして、椅子に座りインタビュウ開始。
「どうして、中庭に池があるのですか?」.
「この学校ができた時………」
インタビューをする方の立場に立ったことはあるが、される方は初めてだ。される方はする方がどんなこと聞きたいのかと考える。まず前提が必要だと思う。池を作ったのは、日吉台小学校の第2期の卒業生。そこで、その頃の状況説明をしないと理解が難しいので、僕がこの小学校が出来た時にこの小学校へ赴任してきたことを話す。四人の子どもはすぐにメモを取り始める。なんか健気で愛くるしい。
「この学校が出来る前は坂本小学校まで毎日歩いて通っていたけど、日吉台に新しい小学校ができたので。子どもたちは嬉しかった」
しかし、新しい小学校ができたものの、教室と体育館とプールと運動場はあるけれ、もっと良い小学校を作っていきたい。子供と先生とお父さん、お母さんが力を合わせて、そこで、中庭に池を作ろうという話になった。長休みと昼休みにスコップで池を掘ってコンクリートを流して、ペンキを塗って、誰かのお父さんが噴水を作ってくれて、出来上がった」という話をした。
「池に何を入れるつもりだったのですか?」
「卒業制作だから在校生に池を贈って、あとは在校生たちが利用する」
「在校生ってどういう意味ですか?」
在校生というのは卒業生が卒業していって残る学年の子どもです。一年生から五年生」
そんなやりとりがあって、
「なんで、池の色を青にしたのですか?」
「プールも青い色になっている。青い色は水がきれいに見える。噴水を作ってくださったお父さんに教えてもらって、池のコンクリートを真っ白のペンキを塗って、その上から青のペンキを塗りました。その方が、水を入れたときにきれいな青になるということでした」
そんなやりとりだった。インタビューが終わった後、一人の女の子が
「こんなにたくさん書いた。初めて」
と言っていた。僕に行ったわけでない。横の友だちに言っていた。嬉しかった。続きは明日。
6月19日(金)
次の質問者は二人だった。男の子と女の子。はじめに挨拶をしてから質問。
「日吉台小学校の運動場に、上から見ると日吉台のマークが見える物が作ってあるのはなぜですか」
「その前に、ちょっと話をしてもいいかな」
「はい」
ということで、日吉台小学校ができて通学距離が短くなってみんな喜んだ。で、これからこの小学校を良い学校にしていくのは、子どもの力と先生の力とお母さんお父さんの力を合わせなければならない。そこで、中庭に池を作った。運動場に遊具を作った。体育館のまえに花壇を作った。運動場と校舎の間にレンガを積んで日吉台のシンボルを作った。子どもと大人が力を合わせて作ったんだということを校長室にある写真を見せながら説明した。
「わたしは、空から見てもここが日吉台小学校だとわかるように作ったんだと考えました」
と女の子が言ったので、あの頃、航空写真が流行っていて、航空写真に写ったらいいなと思ったのこもしれないと答えた。
「何年前に作ったんですか?」
「30年ぐらい前かな」
というようなやり取りをして時間が来てしまった。
「レンガが1個壊れている」ということも観察していた。熱心に取り組んでいる。良い新聞を作ってねと言って別れた。
体操服のことはまた明日?
6月20日
3組目の質問は体操服の色のことでの質問でした。女の子2人男の子1人のグループです。この3人もちゃんと挨拶をして入ってきました。挨拶が終わって、質問です。
「日吉台小学校の体操服の色はなんで上が白で下がオレンジ色なのですか」
前の2組と同じように、日吉台小学校が開校したけれど、これから良い学校にしていこうとみんなで力を合わせて、取り組んだということを話してから、体操服のことを話しました。
どんな体操服にするかを話し合ったのはお父さんお母さんの代表と先生の代表の人が何回か話し合いを持ちました。
運動しやすいこと、日吉台小学校らしいこと、遠足とかに行っても目立つこととかいろいろなことを1学期の間に話し合ってあのデザインに決まった。上の白は汚れが目立つ色で他の学校でもそうだけど清潔な白。下のオレンジは校旗の色からきていると思う。
「あの色に決まるまではどんな色の体操服を着ていたのですか」
次の質問。
新しい体操服ができるまでは、その前の年まで着ていた坂本小学校の体操服がほとんどで、転校してきた人は、たとえば唐崎小学校からきた人は唐崎小学校の体操服、堅田小学校から来た人は堅田小学校の体操服だった。2学期の運動会にはみんな日吉台小学校の体操服を着て運動会をやったと思う。
「腕のところに付いている四角のオレンジはなんで付いているのですか」
ぼくは、ちょっとなんのことだか分からなかったので、戸棚からアルバムを引き出して、運動会のページを探した。その前にクラス写真があって、若い頃の自分が写っていたので、それを見せると、
「若い」とびっくりしていた。そして、
「あっ、これ。『つ*か*け*い*』お父さん」と女の子が言った。なんか不思議な偶然。その頃の子どもの顔がいっぱい浮かんできた。それから、クラブ写真では色々な体操服を着ていて、
「これ、体操服が違う」とかいうので、見てみると運動クラブの子でオレンジの体操服を着ている子はほとんどいなかった。ブルマや白いショートパンツ、なんだったのだろう。記憶にない。ちょっと不思議だった。うまく答えられなかった。
そして運動会のページをめくるとオレンジのラインが入っていた。
「下に合わせた、日吉台小学校らしさをあらわしたデザインでしょう」ということで時間がきてしまった。
おじいさんが孫と昔話をしているような感覚。こんな余裕を現役の時も持っていられれば、もっと有効だったのかな。
それから、つくし学級へ行ってしばらく話して帰った。
昨日、「海街ダイアリー」を観てきた。一言で言えば良かった。良い映画だった。

6月21日(日)
もう第4週、昨日は、星の観察に同級生の家まで行ってきた。比叡山の麓で琵琶湖が一望できる。夕方からおじゃました。星の観察というより星の取材、樹雨屋の「4月三ツ星宵に果てる」子供のころ一番星を見つける競争とかをしていたことがある。きっと夏の夕方だったのだろう。昨日は三日月と金星が比叡山の稜線のお椀のようになった所に浮かんでいて綺麗だった。目当ての東の星は雲で見られなかったが琵琶湖の東の夜景がともってくる様子が見られた。高台のログハウス、東が晴れたらまた、お邪魔させてもらおう。
その後、天神川へ蛍の調査にいってきた。ホタル見物の人が結構いた。これも取材をかねて行ってきた。樹雨屋の「蛍雨」で使う予定。
今日は朝から雷。今日の草刈り作業はどうなるのだろう。
6月22日(月)
草刈り作業は27日に延期。昨日は図書館へ行っていた。高校生が受験勉強。そろそろ期末テストなのか、もうすぐ7月になってしまう。日曜日は子どもが多い。何才ぐらいの子どもだろう。男の子。ヨチヨチフラフラ歩き
「カアさんいないか?」
ちょっと低音で書棚を覗き込んでは次の書棚。
「カアさんいないか、いた」
そして
「カアさんいないか」
「いた、カアさんいないか」
みょうに落ち着いた声だった。
「ヒロシマ、60年の記録」「誇りあれ」「すごい夜空の見つけ方」「星と暮らす」の4冊を借りてきた。
久しぶりに夜ごはんを作った。豚バラとひじきの炒め物、豆腐サラダ、ニラまんじゅう、ナポリタン。ロック用の夏限定の焼酎で、鉄腕ダッシュを視ながらゆっくり飲んだ。世間は忙しくて、騒がしい。日常はそれとの距離。
6月23日(火)
今日は大津プリンスで講習会があるので受けに行く。「食品衛生責任者講習」受講料は昼食代を含めて一万円。小学校の時の同級生と僕と娘の三人で行く。
昨日も夜ごはんを作った。豚バラとヒジキの炒め物にキムチと卵を入れた。豚キムチにヒジキを入れたみたいになった。結構美味しくなった。
食品衛生責任者講習、僕としては面白かった。3人だと思っていたら、弟夫婦もやってきた。50分の講義が6回4時20分に終わって、お店にかかっている金の文字で青いプレートに、食品衛生責任者 飯田勝良をもらってきた。昼食の弁当もプリンスが用意したもの。確認テストも全問正解だった。
6月24日(水)
昨日から観音堂の施錠係になった。昨夜9時過ぎにお堂に施錠して、朝7時に鍵を開けに行ってきた。その後、『樹雨屋』の書き直しを一時間ほどやった。なかなか進まない。筆の速度が落ちたというより、止まってしまった。何件かの葬式、ペースがくるった。ペースを戻すには?
ブログに吐き出すことか、この前知り合いに「日記を書いているのか」と言われた。日記なのだろう。でも読む人を意識しているところもあるので、随筆、エッセイ、コラムそんな自己よがりなのだろう。気分によっては随筆にもなる。随筆を書く気分になれたらなと最近思う。一週間ほど前にアメリカの人からコメントをもらった。書いていてほとんどこないけど、コメントが届くと嬉しい。たまにだから嬉しい。
6月25日(木)
今日は午前出勤。吉本隆明の全集の連絡が入ってこない。もう6月が終わってしまうのに。
晶文社のサイトを見たら、予定通り、6月下旬に刊行するとあった。メインは「カールマルクス」と「自立の思想的拠点」
横超忌(おうちょうき)というものがあるらしい。横超というのは日本酒の名前らしい。吉本隆明を偲ぶ会。横超とは仏教用語らしい、親鸞がよく使った言葉らしい。仏の力で浄土へというような意味らしい。その日本酒を隆明が生前に愛飲していたかどうかは知らない。お酒の話とかについて書いたものは読んだことがない。料理は多かった。ぼくの卒論も、隆明から見た宮沢賢治のとらえ方が全てだったし、国語の授業で「やまなし」をやるときは、隆明の「宮沢賢治論」を読み返していた。
6月26日(金)
今月の始め、「樹雨屋」を優先して書いていくと宣言したのに筆が進まない。そこで、固定ページに書いていたものを書き直して投稿ページに載せて行こうと思う。自分へのプレッシャーというより、手を替え品を替えて奮闘努力していこう。今日から連載。週1くらいのペースで。
困ったもんだ。『樹雨屋』を書き直すようになった。それも良い。

6月28日(日)
日曜日から一週間が始まるというのには、なかなか慣れない。でも、このブログは日曜日に新しいページを作る。もう、最終の6月、後、7月を終わると、このホームページも一年を過ぎる。一年書き続ければ何かが生まれる。本当だろうか。今のところ、毎日文字を書く習慣が身についてきた。写真はベトナム、ホーチミンの町を走っている三輪車。前の車輪が二つ、後ろが一つ。荷物を載せるにはこの方がいいのかなとも思う。珍しいので撮った。
今日は、「星と暮らす」藤井旭を読んだ。樹雨屋の取材。ビンセント、バン、ゴッホの「ローヌ川の星月夜」樹雨屋に使うかも知れない。
6月29日(月)
昨日、私的編集者と会って、樹雨屋の話をした。結構大胆な提案をされた。僕が樹雨屋を投稿ページで書き直していると云ったら、今村恭平を立春から樹雨屋へ行かせろという。ちょうど、立春の場面に離れた場所で恭平が何年か前を改装している場面を挿入しようと考えていたところだが、途中参加というところは曲げられない。朝から底の部分を読み返しているがうまくいかない。その時登場人物の名前の間違いを教えてくれた。そこは今から訂正しようと思う。回想場面を入れられたら、1か2に入れたいが3にするかもしれない。
なんとか1に放り込んで編集者のオッケイをもらった。明日、樹雨屋3が公開できるように今日は眠る。明日の朝起きて書こうと思っているが、公開は12時ぐらいになるだろう。
6月30日(火)
10時半なんとか約束が果たせた。樹雨屋3がアップできた。樹雨屋2も書き添えた。シイタケ日記は明日書く。資生園で働いていたら扶桑書店から携帯に電話が入った。吉本隆明の全集が入ったという連絡で、仕事が終わってから、取りに行った。第9巻「カールマルクス」と「自立の思想的拠点」「試行」後記もある。ゆっくり読もう。まだ配本は六冊全38巻が配本されるまで、僕は生きているのだろうか。そこまでは生きていよう。それが揃うまでは。《小さく稼ぐ》このハルノ宵子(長女)の文章が好きで配本を待っているところもある。今週は、今回のハルノ宵子の文を引用紹介していく。明日から。今日は始めの1行
……ものすご〜く誤解されている方が多いと思うが、モノ書きはおしなべてビンボーだ………
7月1日(水)
今日の「お父っつあん吉本隆明」
……女性はあたり前に、小さくなった石鹸を2つくっつけて使ったりするが、父はまだ半分位で捨てていた。もったいないと咎めると、「石鹸くらい好きに使わせてくれよな。こんなの服1着買うのに比べれば、なんでもないだろう」とい言う。おっしゃる通り石鹸1個は「どっちのTシャツ買おうかな」の、誤差の範囲だし、買物途中のアイスの買い食いにも満たない。戦時中はさんざん暗いのをガマンしたんだからと、TVも電灯もつけっ放し。ひと部屋が寒いと家中が薄ら寒いと、使わない部屋も暖房をつけていた。みみっちい節約をするよりは快適を選び、その差額分は稼いでやる。という考え方だった。
それでも歳をとり、眼が悪くなり体力は落ち、新刊本は減ってくる。「お父っつあん、今月は電気料金が落ちませんでした」と報告すると「そうか〜…こういう時はな…小さく稼ぐに限る」という。「してその方法は?」と、わたしと万能助っ人の舎弟はぐぐっと身を乗り出す。
「よし!本を売ろう」という父の答えに、舎弟と大コケしながらも、半月ほどかけて献本分の自著やら贈呈本を整理する。神保町の老舗書店のおやじ様に来ていただき、売っ払うと数万円になる。それを「わーい!ボーナスだと、父と私と舎弟の3人で山分けしてしまうのだから、まったく意味がない。
でも、ちょっぴり”心”が潤う。(ハルノ宵子)
「お父さんとお母さん」「おとうたんとお母ちゃん」子どもが両親をどう呼ぶかというのは、家族の関係を表している。さん付けにせよ、ちゃん付けにせよ、同じ呼び方ならそれが普通だろう。うちは子どもが二人いるが二人ともお母さんとお父ちゃんと呼ぶ。どう解釈するかは自由だ。吉本隆明のハルノ宵子はお父っっつあと呼ぶし、吉本ばななはお父ちゃんと呼ぶ。二人とも、吉本隆明の子どもに生まれてきたことが嬉しいみたりだ。明日もその話を続けたい。今日はなんとか樹雨屋3をアップできた。

7月2日(木)
今日の「お父っつあん吉本隆明」
父のように、読者層が限られていると、まず初版は6千部程度だ。仮に1冊2千円の本で印税が10%として、とりあえず120万円が入る。しかし、あれだけのエネルギー値が込められた本だ。どう頑張っても、新刊は、年に2、3冊が限度だろう。その間増刷があったり、以前の著書が文庫化されても、基本年収は数百万円だ。(ハルノ宵子)
市井とか大衆とか、そんな言葉が似合うのはそういうことだったのか。吉本隆明の年収のことなんか考えたことがなかった。

7月3日(金)
今日の「お父っつあん吉本隆明」
父は大学教授などの、定期収入のある職業には就かなかったし、講演も主催者側の”言い値”で引き受けるので、自前で遠方まで出向いても、5万円とかテレカ1枚の時もあった。こんな”水商売”でよくぞ家族と猫を食わせてくれたものだと、今さらながら感服する。
隆明は、宮沢賢治になれなかったと、講演で言っていたが、自宅の仕事部屋で、もちろん編集者とか、とは話するのだろうけれど、スタッフがいたりせずにこんな時代にコツコツと仕事をしているのは、アメニモマケズだろう。
樹雨屋4アップした。今日はこれから歯医者、その前にコジャック、それから平和堂。明日は法事があるし、明後日は琵琶湖一斉清掃。気になることもいっぱいある。行動力というのはどうしたら身につけられるのだろう。行動力のある人が羨ましい。

7月4日(土)
昨日は歯医者へ行ってきた。歯茎が腫れて、顔が歪んだ。最近災いが顔面にくる。4月は顔を火傷した。メスを入れてもらって、抗生物質をもらってきた。昨日と今日は、酒、風呂禁止。今日は法事があるが飲めない。
今日の「お父っつあん吉本隆明」
晩年ぼけて仕事が思うようにできなくなった父が弱々しい笑顔で「間宮さん(この全集を編んだ編集者さん)の目次はほんとうに考えられていて感心したよ。出せたらほんとうに嬉しいけれど、今の時代はそんなに甘くないからねえ」と言った。そんなことはない。必ず出る、今じゃないかもしれないけど、必ず残るよ、と姉と私と間宮さんはくり返し父に言い続けた。父は淋しそうに「むつかしいと思うねえ」と言い続けるばかりだった。

写真は、クアラルンプールの街角の看板
7月5日(日)
今日は琵琶湖一斉清掃の日。ゴミの回収が終わった後公園の草刈り。パルコへ行って、無くした三木成男を買ってくる。それとちょっと高いノート。それから私設編集者と会う。

7月6日(月)
昨日も酒抜き。いつまで何だろうか。抗生物質を飲んでいる間はお酒はダメですと歯医者さんは言っていた。今日昼前に歯医者さんへ行った。酒はまだダメだった。抗生物質を飲んでいる間はダメらしい。3日分の薬がでたのであと4日はアルコール禁止。辛い。資生園も今日、明日は休む電話をした。今日は樹雨屋5を無理やり書いた、あと少しで立春が終わる。

7月7日
今日はホタル調査の提出締切日。樹雨屋6なんとかできた。7も8もアップできた。「吉本隆明全集9」を今日初めて開いた。前回の配本の「言語にとって美とはなにか」は熱心に読んだ。今回の「カールマルクス」は以前文庫本で読んで、なんとなくもう一度読みたいとは思えない。もう一つのメイン「自立の思想的拠点」は今、必要かと言われるとそうでもない。きょうは「佃んべえ」を読んだ。先週書いていた「おとっつぁん吉本隆明」に近い。隆明の詩で「佃渡し」と関わりのある散文。古今亭志ん朝の佃祭は祭り好きの男が佃渡しの最終に遅れて命が助かるという話だし、こち亀の両さんのおじいさんが住んでいるのも佃島の高層、ハイテクマンションだし、小林信彦の題名もストーリーも忘れたが小説に効果的な「佃渡し」の引用があった。今日から、「佃んべえ」を引用していく。
今日の「佃んべえ」
ここ四五年のうちに、わたしは佃渡しをニ度わたった。はじめの一度は妻子といっしょに、もうかっての賑やかさもなくなって薄暗い電灯のような感じになってしまった佃祭りをみにいったのである。それは少年のころのじぶんの貌をみにゆくのとおなじであった。そのころ住んでいた家は面影は変わっていたがのこっており掘割のあいだに浮かんでいる隅田川の三角州の街という独特の感じが、そのときはまだあった。分別くさくはなっているが、いつかどこかで見おぼえのある貌だという貌にも出遭ったような気がした。(吉本隆明)

7月8日(水)
昨夜、寝る前にYouTubeで柳家権太楼の「佃祭り」を視て、古今亭志ん朝の「佃祭り」を視た。同じ落語なのにずいぶん違う。権太楼の入り方は、「情けは人の為ならず」と情けという言葉を説明して、「恩を着せる」情けと恩の違いは、忘れているか、覚えているかの違いだという「えっ、わたしがあっ、五十万円っ
貸したあっ?覚えてないなあ」みたいなのが情け。そして落語に入る。志ん朝の方は「今は医学が発達してほとんどの病気は治るというが、病を信心出直すという方法を取っていた、目は薬師さまに安産は水天宮にお参り、歯痛は戸隠さんに参って、梨にどこが痛いか書いて橋から川に流す」そして落語、志ん朝ははおカミさんとの絡みから入るが、権太楼は佃の住吉大社のお祭りにたくさんの人が集まると入る。ずいぶん言葉の選び方も違う。
今日の「佃んべえ」
ニ度目に行ったのは縁者の急病のためだったが、このときは娘と二人だけだった。すでに佃大橋もできかかり、掘割は埋立てがすすんでおり、舗装路が貫通し、少年のころ住んでいた家のあとも、ひとつは完全に消失していた。もうおれは、用件以外の雰囲気をこめてこの街へ来まいとおもった。すでにそれは都市の膨化に追いたてられ、やむをえず改装され、ペンキをぬりかえられる場末の安キャバレーににていた。木下杢太郞よ、パンの会よ、明治の大川端趣味よ、おれがこの風景にとどめを刺してやるとおもって「佃渡し」という詩をかいた。

7月9日、今日は、大津広報の仕分けをしないと。
今日の「佃んべえ」
しかし、路をこまかくくぐってゆくと少年のころ遊びまわり、隠れまわった路地は、ところどころにそのままの感じでのこっていた。そしてその路地裏で、ときどき見廻りにくる先生や巡査にかくれて、ズック床を移動し、べえ独楽の勝負をやった自分や仲間の姿をおもい描くことができた。ゴザ床とズック床でちがうべえ独楽の弾き具合、廻り具合のイメージ、ヤスリをかけて独楽の先を尖らした日々、あまり器用でなく負け込むことの多かったわが兄弟の姿などがそこにあった。もう残りすくなくなったべえ独楽をかぞえながら、しだいに過熱してゆく少年のじぶんのいだいた感じは、後年スマート・ボール屋にいりびたって景品を売りとばして儲けていた失業時代の負けが込んだときのイメージと連環して蘇ってきた。(吉本隆明)
スマート・ボール屋は大学に入って広島で生活した頃、鷹野橋商店街の奥の方にあった。パチンコよりシンプルで、台がよければよく出た記憶がある。隆明はそれで喰っていた時代があったということはしっている。ボールは弾くのじゃなくて、ビリヤードのように押し出すのが良いと書いてあったので、そうやっていたと思う。でも、そんなに簡単にはいかなかった。それとべえ独楽はやった覚えがない。メンコとビー玉はよくやった。毎日毎日やっていた。技術も上がっていって本当にたくさん集まった。

7月10日(金)
今日の「佃んべえ」
いまでも、べえ独楽が少年たちのあいだで禁制を犯しているやられているかどうかしらない。最初の賭け事の心理、貫目にすれば金銭に換算できる遊びをわたしにはじめておしえたのはこのべえ独楽である。
わたしたちがこのころ佃んべえとよんでいたべえ独楽があった。ふつうのべえ独楽とおなじように粗雑な鋳型に入れた鉄製なのだが、形がちがっていた。ふつうのべえ独楽を底円形の広い、いわば平たい円錐とすれば、底円形がそれよりも高い尖った円錐形をしていた。もうひとつの特徴は、円錐の底円形に相当する部分の模様が、やや粗雑でなくきれいなことであった。そしてもうひとつ、これは記憶が危うくなっているが鋳型の質が炭素量のすくない、いくぶんか上質であるような手ごたえがあった。このべえ独楽が、じっさいに佃島の遊人かなにかの密造によったものかどうかは知らない。わたしたちは、佃んべえとよんでいて、勝負にそのべえがもちこまれると、いくらか眼の色をかえてそれを手に入れたがったのはたしかである。
子どもの頃、メンコではロウ面といってロウソクのロウを塗りつけて重くしたり、親玉という大きなビー玉が出てきたこともあった。子どもの世界も悪どかった。弱い奴がそれを持ち出したらカモだから何も言わないで巻き上げてしまうけど、強い奴がそれを使うと卑怯者扱いしていた。

7月11日(土)
昨日私設編集者の樹雨屋6から9までを見てもらってチェックを受けた。樹雨屋ノートにするか樹雨ノートにするかを聞かれた。前のときは樹雨ノートと書いていたのに今回は樹雨屋ノートと書いていた。よく見ている。さすがだと思う。行っては戻りの繰り返しだ。まだ折り返しての旗も遥か向こうで見えてこない。彼も定年退職組。いろんな話をする。昨日は岩手の中学生の自死のことと順列組み合わせのことが話題になった。競馬はあまりしたことがないが、競馬で馬券を買うときに、まず4頭の馬を選んでその馬で連勝複式を買うと何通りになるか、どういう式で求めるのか説明してくれという。a,b,c,d4頭の馬がいたら、aの馬を頭に馬券を買うとa-b,a-c,a-dの3通り。だからそれぞれを頭にして買って3×4の12通り。腹式だからa-bとb-aは同じなので12÷2で6通り。じゃあ三連複は?aを頭にすると、というよりaとbを固定するとa-b-cとa-b-dの二通り。a,c
固定も二通り、a,d固定も二通り、だからaを頭に6通り、b,c,dを頭にしてもそれぞれ6通りだから6×4の24でその半分で12通り。そんな話をして、ちょっと重い中学生のいじめの問題をどう思うかと聞かれた。テレビでのコメンテーターや教育委員会の会見のことを言う。生活ノートでのsosと担任の対応。テレビや新聞をみていると、何か取り上げ方が違う気がすると思う。順列組み合わせの問題を例にとって自分の考えを話した。中学時代に順列組み合わせの問題がよく分からなかった教師と、すぐに分かった教師の指導は多分違うのだろう。よく分からなかった教師はわからない子どもの気持ちも分かるので、ていねいに教える。いじめを受けた教師といじめを受けなかった教師、その子供理解は格段の差があるのだろう。ぼくも編集の彼もいじめを受けた記憶がない。その担任はどうだったのかは知らない。テレビでやっているのは大人の責任のなすりつけみたいでいやだ。でも、これが現場の現実。大津の事件でも同じだった。大津の事件の教訓がどうのこうのというのも、責任のなすりつけ。教訓を与えられる所まで掘り下げられなかっただけだと思う。偉そうに、批判しても仕方がないが、大津の事件のときに、朝日新聞で連載していた『いじめられている君へ、いじめている君へ、いじめをみている君へ」を丁寧に読んだ。まだ現役だったら、毎日子どもたちに読んで聞かせたいと思った。もっともっと連載してほしかった。遠くからみている、年寄りのたわごとみたいな意見になってしまった。まあ、そんな話を昨日コメダ珈琲でしていた。
今日の「佃んべえ」
少年の遊びの世界は、それ自体が閉じられた別の世界である。そこでは独特の掟がつくられ、独特の常識が流通し、独特の恐怖と歓びとがある。原始人や精神病者の世界のように荒唐無稽なことが信じられ、また独特の内閉的な価値観が支配している世界である。
ある時、べえ独楽をやっている現場を先生におさえられた生徒たちが、学校の朝礼のとき前に呼び出されて、見せしめのためなぐられたことがあった。わたしたち常習者は、緊張と安堵と後ろめたさのいりまじった感じで、しいんとしたまま耐えていた。少年の遊びの世界に流通する価値は、ほんとうはそれ以外の世界からはわからないのだが、それはたしかに先生と巡査からは禁制とされる世界の匂いをふくんでいた。

今週の写真。ここはホーチミン市の郵便局です。
7月12日(日)
今日の「佃んべえ」今日が「佃んべえ」の最後で、明日から、「佃渡し」を紹介していきます。
すでにその世界にほんとうに近づく手段は、わたしにはなくなっている。ほんとうは追憶も、類推もそれを再現できはしない。ゆいつの再現方はみずからが精神病者になることだが、それはこの世界の価値観と断絶するという代償なしには不可能である。追憶の虚妄であるのは未来感の虚妄であるのとひとしい。
解題を読むと、この文章は『小原流挿花』に発表されたそうだ。小原流というのは生花の流派。学生の頃、パチンコ屋に置いてある『王様手帳』という宣伝詩が置いてあって、それに隆明がインタビューを受けていたのも面白かった。この文章は1966年に発表されている。その頃は違和感はなかったのだろうと思うが〈精神病者〉という後にはちょっと戸惑ってしまう。今だったら、もっと個別の病名になるのだろう。それと、文章写していて、ひらがなの多い、むかしの隆明の文章の特徴が出ているのが懐かしかった。明日からは、ノートに何回も書き写した「佃渡し」

7月13日(火)
今日の「佃渡しで」
佃渡しで

佃渡しで娘がいった
〈水がきれいね 夏に行った海岸のように
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
芥がたまってゆれてるのがみえるだろう
ずっと昔からそうだった
〈これからは娘に聴こえぬ胸のなかでいう〉
水は黑(*本当は黑の横に玄という漢字だが出てこない)くてあまり流れない 氷雨の空の下で
おおきな下水道のようにくねっているのは老齢期の河のしるしだ
この河の入りくんだ堀割のあいだに
ひとつの街がありそこで住んでいた
蟹はまだ生きていてそれをとりに行った
そして沼泥に足をふみこんで泳いだ(吉本隆明)

黒の辺に玄の造りこのキーボードでは出てこない。黒も玄も黒と読む、玄人のくろ。黒の字を探している時、黒の字がこんな字だったっけと変に感じた。時々そんなことがある。今まで書き慣れていた漢字が出てこなくて、調べても本当にこれでいいのか、これだったのかと腑に落ちないような感覚、これも老化なのだろうか。もう、あいつはいない。あの人も亡くなった。でもぼくたちの意識は、死んだ人といきている人を区別しないようにできている。生きている知人で、しばらく出逢っていない知人と死んでしまった知人は同じだと思う。

7月14日(火)
何日か前に順列組み合わせのことを書いて、後で、間違いに気がついて直さなければと思っていて直せてない。あの時、馬券を買う時は馬を4頭選ぶのが常套らしい。a,b,c,dの四等の馬を選んで、一着、二着、三着の馬を当てる組み合わせは一着二着をabにすると、abcとabdの二通り、acを一着二着にしてもacb,acdの二通り、adならばadb,adcの二通り。つまりaを一着で6通り、だから6×4の24通り。三連単の買い方はそれでオッケイ。この前は勘違いしてそれを二で割っていたけど、それは間違い。三連複だと思っていたので。三連複の出し方でもそれは間違いで、2で割るのじゃなくて6で割らないといけない。なぜなら同じ組み合わせが6通りあるから。三連複の買い方はもっと簡単に考えた方が良いことがその時わかった。4頭の馬から3頭を選ぶのだから、そして着順はどうでもいいのだから、aをぬいたbcd,bをぬいたacd,cをぬいたand,dをぬいたabcの四通りしかない。算数とか数学は考え方を考えるから面白い、すっきりするんだという話だった。

今日の「佃渡しで」

佃渡しで娘がいつた
〈あの鳥はなに?〉
〈かもめだよ〉
〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉
あれは鳶だろう
むかしもそれはいた
流れてくる鼠の死骸や綿腹(わた)を
ついばむためにかもめの仲間で舞っていた
〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉
水に囲まれた生活というのは
いつでもちよつした砦のような感じで
夢のなかで堀割はいつもあらわれる
橋という橋は何の為あつたか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあつた (吉本隆明)

悲しみがあれば流す。それが延命の方法なのだろう。ここ最近、自殺の話題が、テレビでも身近でもある。何年か前に、葬式が多かった年に、三件の自死した人の葬儀に参列したことがある。今でも、その三人の人のことは「ああ、あの人はもういないのか」と思う前に、知らせを聞いた時のどうしようもない感情の記憶が先に現れる。悲しみがあれば流せばいい。知らせを受けたひとが腑に落ちないようなことはできればなくなってほしい。今年もその知らせを聞いてしまった。

7月15日(水)
今日の「佃渡しで」

〈あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 ちいさいだろう〉
これからさきは娘に云えぬ
昔の街はちいさくみえる
掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいつて
しまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かつた距離がちぢまつてみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いつさんに通りすぎる (吉本隆明 佃渡しで)

隆明の祖父は船大工だったそうだ。職人気質はそこからきているといわれる。大衆という言葉ももう昔の言葉になってしまった。
nPr=n×(n-1)×(n-2)×(n-3)・・・・(n-r)……………n個からr個取り出して並べる組み合わせの公式悩みが一つ解決した。

7月16日(木)
「佃渡しで」は昨日で終わった。今日から何を書いていこう。
今日、仕事に行く前に図書館へ行った。図書館で村松友視の本を借りた。一関のジャズ喫茶「ベーシー」を扱った小説だった。書き出しがノンフィクションぽかったので読み始めたが、小説だったのでがっかりした。ぼくの連載している「樹雨屋」もきっとがっかりしている人が多いのだろう。自分で書き直している時も、時々そう思う。でも、書き始めた限り書き終わらなければならない。こんな歳だ。親父が死んだ歳より長生きしている。「今日の・・・」はとっても良い。朝起きて、今週のブログを開けて、まず、「今日の・・・」をコピーして書き写し始めると、脳がゆっくり動き出す。動き出した脳が考えていることを書くと今日の1日が始まる。ということで、引き続き、吉本隆明の『固有時との対話』でいこうと思う。

固有時との対話
メカニカルに組成されたわたしの感覚には湿
気を嫌ふ冬の風の下が適してゐた そして
わたしの無償な時間の劇は物象の微かな役割
に荷はれながら確かに歩みはじめるのである
………と信じられた。 (1950.12)

吉本隆明

7月17日(金)
今日の「固有時との対話」

街々の建築のかげで風はとつぜん生理のやうにおちていつた その時わたしたちの睡りはおなじ方法で空洞のほうへおちた 数かぎりもなく循環したあとで風は路上に枯葉や塵埃をつみかさねた わたしたちはその上に睡つた

わたしたちは不幸をことさらに掻き立てるために
自らの睡りをさまさうとした
風はわたしたちのおこなひを知ってゐるだらう

風はわたしたちの意識の継続をたすけようとして わたしたちの空洞のなかをみたした
わたしたちは風景のなかに在る自らを見知られないために風を寂かに睡らせようとした(吉本隆明)

台風11号は今どこにいるのだろう。瀬戸内海辺りか。さっきから、時々風を切るヒューという音が聞こえてくる。しばらく間を置いて、突然ヒューと聴こえる。ウーという音も聴こえる。これはちょっと離れたところでまっているかぜの音か。ガサガサという音も聞こえる。音を文字で表すのは難しい。何か台風の風じゃないのかもしれないが、台風が来る時に風が騒いでいる音、今は7月、これと9月の台風も同じ音をさせているのだろうけど、何か違う。同じ音を聴いていても9月の方がしんみりする。

7月18日(土)
今日は、携帯をどこかに忘れたので探しに行く。

7月19日(日)
今日の「固有時との対話」

〈風は何処からきたか?〉
何処からといふ不器用な問ひのなかには わたしたちの悔恨が跡をひてゐた わたしたちはその問ひによつて記憶のなかのすべてを目覚ましてきたのだから

〈かぜは過去の方からきた〉
建築は風が立つたときに揺動するように思はれた その影はいくつもの素材に分離しながら濃淡をひいた 建築の内部には錘鉛を垂らした空洞があり そこを過ぎてゆく時間はいちやうに暗かつた

わたしたちは建築にまつはる時間を まるで巨大な石工の掌を視るように驚嘆した 果てしないものの形態と黙示とをたしかに感ずるのだつた

〈風よ〉

風よ お前だけは……
わたしたちが感じたすべてのものを留繋してゐた(吉本隆明)

朝から、詩を書き写すのはいいものだ。色々蘇ってくるものがある。大学生になっていたのに、悔恨という字が読めなかった。名前は忘れたが広電本社前の何とかというカウンターの長い居酒屋で、その頃「定本詩集」を持って、読み方を友だちに教えられた。ぼくは「ぶこん」と読んでいて「かいこんだ」と云われた。ぼくら初体験みんな吉本隆明が大好きで、いつも著作集の第何巻を持っていた。

7月20日(月)
今日の「固有時との対話」

ひとりでに物象の影はとまつた 〈建築・路上・葉をふり落したあとの街路樹の枝〉 そうしてゆるやかな綱目をうごかしはじめた 綱目のうへでわたしたちは寂かに停止した自らの思念をあの時間のなかで凝視してゐた 〈あ・そのとき神はゐない〉 わたしたちは太古の砂上や振子玉のついた寺院の甍のしたで建築の設計に余念なかつた時のやうに明るさにみたされてゐた(吉本隆明)

今日も自治会がらみの行事があるので9時に小椋神社。昨日は森林組合のサイメの確認。夜は慰労会。樹雨屋の雨水の日のことがもうすぐ書き終わる。今週中に書き終わるだろう。雨水が終われば啓蟄。今下書を確認していて間違いに気がついた。雨水はティーチトゥゲザーでなくティーチトゥゲザーは啓蟄のテーマだった。雨水のテーマを劇中で演奏するマイフェバリットシングスに書き直した。わたしのお気に入りみたいな意味の曲。うまく書けたかどうかわからないが演奏が終わったところまでは書けた。

7月21日(火)
昨日は朝から、そうめん流しの準備。竹を切り出して、半分に割り、節をサンダーで取って、設置。5、60メートルはあるだろう。午後にそうめん流し。2百人以上の参加者。それから、夜に同級生が車椅子用のスロープを作るというので、同級生と2人で見に行った。比叡山にかかる三日月と宵の明星がくっきりと縁取られた比叡山に浮かんでいる。この前この家を訪れた時も同じような月だった。あれから一月たったのか。今日の夜は笹神輿の打ち合わせ。忙しい。

今日の「固有時との対話」

わたしたちは〈光と影とを購はう〉と呼びながらこんな真昼間の路上をゆかう そしてとりわけ直線や平面にくぎられた物象の影をたいへん高貴なものに考へながらひとびとのはいりたがらない寂かな路をゆかう 何にもましてわたしたちは神の不在な時間と場所を愛してきたのだから(吉本隆明)

固有時との対話はまだまだ続く。詩の終わりに「少数の読者のための註」があって、そこに
「ぼくはいつも批評家を自らの胎内にもつた詩人を尊重してきたのだ」という一文がある。新しい形の詩を書いていくことが吉本隆明の出発だった。

7月22日(水)
今日の「固有時との対話」

〈神は何処へいつた こんな真昼間

ひとびとは忙しげにまるで機械のやうに歩みさり決してこころに空洞を容れる時間をもたなかつた だから過剰になつた建築の影がひとびとのうしろがはに廻る夕べでなければ神はこころに忍びこまなかつた

わたしたちの思念は平穏に そして覚醒はまるで睡りのやうに冴えてゐた

わたしは慣はしによつて歩むことを知つていた しばしば慣はしによつて安息することも知つてゐた わたしに影がさしかかるときわたしの時間は撩乱した 風は街路樹の響きのなかをわたつて澄んだ わたしの樹々で鳥は鳴かず わたしの眼はすべての光を手ぐりよせやうしないでさしてまとまりのない街々の飾り窓を視てゐた 視界のおくのほうにいつまでも孤独な塵まみれの凹凸があつた(吉本隆明)

昨日は午前中に資生園へ行ってきた。詳しくは「シイタケ日記」で。今日も朝から「固有時との対話」を書き写す。書き写しているうちにいろいろなことが頭の中を過っていく。もうすぐ、あと10日ほどでこのブログも1年書き続けたことになる。去年の8月に書き出して、最初の頃はグーグル検索にも引っかからないのでURLを知人に知らせ廻った。ちょうど夏休みの学校は閑散としていた。その頃ブログで書いていたのは、梅原猛のいう「枢軸」のことで、釈迦とキリストとソクラテスの本を買って読みまわっていた。固定ページに今まで書いていた文書も貼り付け、それを直し直ししながら、1年が過ぎようとしている。この方法はぼくに合っている。コメダ珈琲でWi-Fiが繋がったことも大きい。

7月23日(木)
今日の「固有時との対話」

わたしは誰からも赦されてゐない技法を覚えてゐて建築の導く線と線を結びつけたり 面と面をこしらへたりした わたしの視覚のおくに孤独が住みついてゐてまるで光束のやうに風景のなかを移動した

〈明日わたしはうたふことができるかどうか〉

予感されないままに わたしは自らの願ひを規定した

わたしは独りのときすべての形態に静寂をみつけだした それからすべての形態はその場処に自らを睡らせるやうに思われた とりわけ…雲が睡入るさまはわたしをよろこばせた 建築のあひだや運河のうへで雲はその形態のまま睡入つてしまふやうに思われた(吉本隆明)

この本「吉本隆明 全詩集」を買ったのは定年を迎える二三年前だったと思う。25,000円、今までに買った本の中で1番高価だった。その時、毎日一回固有時との対話を一か月読もうとしたが読めなかった。でも一ヶ月毎日開いては漢字を辞書で調べていた。きっと、この後、このiPadのワープロでは出てこない感じも出てくるだろう。その時は適当に書くしかないなと思っている。(吉本隆明)

7月24日(金)
今日の「固有時との対話」

わたしはその静寂の時をとめた 雲は形態を自らの場処にとめる すると静寂はわたしの意識をとめてしまふやうであつた 忘却といふものをみんなが過去の方向に考へてゐるやうにわたしはそれを未来のほうへ考えてゐた だから未来はすべて空洞のなかに入りこむよう感じられた

〈わたしの遇ひにいくものたちよ
それは忘却をまねきよせないためにすべて過去の方に在らねばならない〉

来歴の知れないわたしの記憶のひとつひとつにもし哀歓の意味を与へようと思ふならばわたしの魂の被つてゐる様々の外殻を剥離してゆけばよかつたはづだ(吉本隆明)

7月25日(土)
一週間の仕事が終わった。明日は棚田トレイルラン。今日は田んぼに行かなければ。

今日の「固有時との対話」

けれどわたしがX軸の方向から街々へはいつてゆくと 記憶はあたかもY軸の方向から蘇つてくるのであつた それで脳髄はいつも確かな像を結ぶにはいたらなかつた 忘却という手易い未来にしたがふためにわたしは上昇または下降の方向ととしてZ軸のほうへ歩み去つたひとびとは考へてくれてよい そしてひとびとがわたしの記憶に悲惨や祝福をみつけようと願ふならば わたしの歩み去つたあとに様々の雲の形態または建築の影をとどめるがよい

わたしは既に生存にむかつて何の痕跡を残すことなく 自らの時間のなかで意識における誤謬の修正に忙しかつたのだ。

7月26日(日)
今日の「固有時との対話」

時は物の形態に影をしづかにおいて過ぎていつた わたしは影から影にひとつのしつかりした形態を探してあるいたのである おう 形態のなかに時はもとのままのあのむごたたらしい孤独 幼年の日の孤独をつつんだまま立ち現れるかどうか わたしは既に忍辱によつてなれきつてゐたので ただ衰弱した魂が策してゐたのである あのむごたらしい孤独 幼年の日の孤独がいまはどのやうな形態によつて立ち現はれるかを あたかも建築と建築のあひだにふと意外にしづかな路上や その果ての樹列を見つけ出して街々のなかの暗い谷間を感じたりすることがあるように もしかしてわたしのあの幼い日の孤独が意外な寂けさで立ち現はれるのを願つてゐたのだ(吉本隆明)

昨日、田んぼの作業は暑かった。フラフラになった。でもまだまだすることが残っている。でも今日は、トレイルランとお葬式。広報の仕分けを娘に頼もうか。あいつも忙しいみたいだ。「樹雨屋」の書き直しにも少し手間取っている。暑くて忙しい。なんとか乗り切らなくては。なんで固有時との対話写してるん?って訊かれたら、どう答えよう。「佃んべえ」に続いて、「佃渡しで」そして「固有時との対話」なんか吉本隆明と話をしているみたいでいい気分になる。隆明が生きている時、一回だけ講演を聞きに行ったことがある。知り合いにオートバイを借りて、福山から、広島まで行って、広島で友だちと合流して、山口市まで、そこで講演を聴いて、広島へ戻ってきたら、夜の12時前だったことを思い出した。
……娘たちを見ていると、逃げちゃダメだよ。と言いたいのだけれど、自分も逃げてきたから、それが娘たちにいうことができない…………………
そんなことを言っていた隆明は本当に普通の正直者だった。

7月27日(月)
今日の固有時との対話」

物の影はすべてうしろがはに倒れ去る わたしは知つてゐる 知つてゐる 影はどこへゆくか たくさんの光をはじいてゐるフランシス水車のやうに影はどこへ自らを持ち運ぶか わたしはよろめきながら埋れきつた観念のそこを掻きわけてはひ出してくる まさしく影のある処から 砂のやうに把みさらさらと落下しまたはしわを寄せるやうにも思はれる時の形態を 影を構成するものを たとへば孤独といふ呼び名で代用することもわたしはゆるしてゐたのだ なぜなら必ず抽象することに慣れてしまつたこころは むごたらしいといふことのかはりに過ぎてゆくといふ言葉を用ひれば あの時と孤独の流れとを繋ぎあはせることができたから(吉本隆明)

7月28日(火)
昨日は土日が潰れたので、溜まった仕事を済ます為に、シイタケの仕事を休んだ。行き詰っていたきさも少し書くことができた。今日こそ忘れずに本屋へ行こう。暦を買って来なければ。

今日の「固有時との対話」

かくてわたしはいつも未来といふものが無いかのやうに街々の角を曲つたものである ただ空洞のやうな個処へゆかうとしてゐるのだと自らに言ひきかせながら 誰もわたしに驚愕を強ひなかつたし 孤独は充分に塡められてゐて余剰を思はせなかつた 其処此処に並んだ建築のあひだ 幼年の日の路上で わたしはいまや抽象された不安をもつて 自らの影に訣れねばならなかつた(吉本隆明)

「幼年の路上」佃んべえとイザベル・オト先生。でもエリアンの手記と詩はもっと少年時代のことなのか。「エリアンの手記と詩」ほこの次に書き写していこう。本当はペンを握って書き写す方が脳にとって良いのはわかる。でもこれでも十分脳の要求にこたえられている。こういう方法を教わったのは吉本隆明の「真贋」だ。昨日、私設編集者にチェックしてもらった。宿題をひとつもらった。樹雨屋でジャズライブのシーン、擬音が陳腐なので削除しろと言われた。ぼくは引き下がらなかった。真剣に擬音を考えるつもりだ。しばらく毎日、図書館で擬音を探して、自分の擬音を手に入れよう。

7月29日(水)
今日は逮夜参りに行ってきた。固有時との対話が書けなかった。

7月30日(木)
朝から、ユーチューブで「テイクファイブ」を何回も聞いて、樹雨屋12を書き直した。ピアノの音は文字で表せない。何回聞いても文字につながらない。文字が浮かんでこない。ポロンのポってどんな音なんだろう。何日か前に、宮沢賢治のオノマトペ(擬音、擬態語)を書き写してみたが、そんな簡単に擬音が生み出せるわけではない。疲れた。樹雨屋13は明日やってみる。昨日は
書く時間があまりなかった。今日は頑張ろう。田んぼの草刈りは一日サボれば、やめてしまいそうなので、今日も行くつもりだ。忘れないうちに、今日の「固有時との対話」

わたしの知らうとしたことは時計器にはかかはらない時間のむかふからやつてくるはづであつた しかも視ることの出来ない形態で 決してわたしを霑ほすやうにはやつてこないはづであつた

わたしのこころは乾いて風や光の移動すら感覚しようとはしなかつた 多彩ないろが流転する場処でこころは渇えてたつたひとつの当為を索めてゐた 限りない生存の不幸をいやすためにわたしは何を感じなければならなかつたか そしてわたしに感じさせるためにそれは何処からやつてこなければならなかつたか わたしは徒らに時の流れをひき延ばすことで わたしの渇えをまたひき延ばしてきたにすぎなかつた。

7月31日(金)

ブログの書き始めが2014年8月2日だから、今日と明日ちゃんと書くと365日書き続けたことになる。吉本隆明はむかし、「詩人になるのは簡単だ。毎日、1編の詩を書けばよい。それを1年間続ければ詩人になれる」と言いきっていた。何回かチャレンジしたが、3日ともたなかった。村上春樹は、「1年間で長編を1本書かなければ、本当の小説を書くことができない」とジャズクラブの経営をやめて、原稿用紙1,000枚の長編を書いた。ぼくの目標は後6ヶ月で「樹雨屋」を完成させること。「広島」も「青空物語」も書きたいが、今は「樹雨屋」優先で。

今日の「固有時との対話」

既に物を解き明かす諸作を喪つてしまつたひとびとの群れにわたしは秘かに加はろうとしてゐた わたしの時はいつも同じ形態で 同じ光や影の量で おとづれてきた

わたしは自らの影を腐葉土のやうに埋れさせた 判ずる術もないがわたしの埋められた影はいまもそのまま且つての諸作で 光の集積層の底に横つてゐるだろう 記憶によつてではなく何か哀しみを帯びた諸作を繰返すごとに わたしの埋もれた影がまがふかたなくわたしの現在を決定するように思はれた…

これを書いた後、草刈りに出かけて、図書館で本をさんさつかりて、資生えんへ。今10時半。これを書き足している。明日は、地域の夏祭り。焼きそばを焼いて販売。

8月1日(土)
昨日は、図書館で、「世に棲む日日」(司馬遼太郎)を借りてきた。ついでに「ジャズカルチャー講座」とル・コルドン・ブルーのフランスパン基礎ノート」も借りた。「世に棲む日日」を少し読んだ。司馬遼太郎は久しぶりだ。吉田松陰が生きていたのが奇跡だという。長州藩が彼が生まれて来た時から変化したんだという。図書館には文春文庫の1しかなかった。とりあえず1を借りてきた。3冊でセットになっている。後半は高杉晋作になるらしい。新しい文庫は4冊になっているらしい。

今日の「固有時との対話」

わたしは決してしあわせを含んだ思ひに出遇ふとは考へてゐなかつたけれど いつかわたしのこころが物象に影響されなくなつた時 何もかも包摂したひとつの睡りに就き得るだらうと予感してゐた

まつたくわたしはこんな予感をあてにして生存してゐたとわたしを知らないひとびとは考へたかも知れない わたしはあてでもあるかのやうに視えたにちがひないのだから ほんたうにあてでもあるかのやうに急ぎ足で あてでもあるかのやうに暗鬱であつたのだから(吉本隆明)

なんとなくわかる。若い頃、ぼくたちの若い頃はこんな言葉があふれていて、まったくその通りだと思って、苦しんでいるように振舞って、楽しんでいたので、その頃のともだちと飲むのが楽しいんだろうなと思う。

8月2日(日)
昨日は夏祭りの焼きそばを焼いていた。5時前から焼き始めて、一時間半は焼いていた。そして夏祭りの後片付けが終わったのが9時半。12時半に集合して、10時間関わっていた。そして、今日の朝は5時半に墓掃除、その後六体地蔵さんの花筒と線香立てを作って、8時半から、イノシシよけの電気の柵のやりかえ。炎天下で初めて熱中症を体験した。まず手が痙攣、そして、腹筋、そして足。どこかが治れば、どこかへ移動する。結構激痛だった。一緒に作業していた同級生は、その後頭へ来るから、車の中でクーラーをきかせて休めといってくれた。今はおさまっているが、また、2時から作業、そして4時から縁立て。とりあえず2時まで休もう。2時まで休もうとしたが、足全体がつってきた。動くと余計に痛む。痛みに耐えながら、風呂場に行った。でもますます痛みが増す。シャワーを持つ手が固まる。固まってシャワーが手から離れない。足の太ももにも痛みが走る。少し和らいだところで、車に乗って薬局へ行こうとしたが足がつる。知りあいに連絡して、薬局へ連れて行ってもらった。吸収の早い水を勧められ、ゼリーの方を二つ買って帰る涼を探して、図書館へ行ったが眠くなってきたので駐車場で一時間ぐらい眠った。それから、縁たてを断りに行った。

8月3日(月)
大変な二年目の最初の1日だった。昨夜は目がさめると、足がつった。というか足がつるから目が覚めたのかもしれない。筋肉が脳に何かを訴えているのだろう。脳はどうしていいのかわからない。何を訴えているのかわからない。まあ様子を見ながら、体を動かしていこう。
昨日は書けなかったけど、今日の「固有時との対話」

〈わたしは酸えた日差しのしたで ひとりのひとに遇はうとしてゐた〉

わたしは街々のうへにいつぱい覆はれた暗い空にむかつてやがて自らのとほり路になるはずの空洞を索しもとめた 空洞はわたしの過剰と静寂とを決定するはづであつた わたしには何よりもそれが必要であつたから わたしはあふれ出る風の騒ぎや雲の動きを覚えようとしなかつた 季節はいまこころの何処を過ぎようとしてゐるのか そして生存の高処で何がわたしに信号しようとしてゐるのか わたしは知らうとしなかつた。

8月4日(火)
何とか昨日は乗り越えた。足や手の痙攣はなかった。(もうすぐ立秋になるのかな)そんなことをシイタケの袋むきをしながら考えていた。春夏秋冬の四季というものは夏の真っ盛りの処で突然夏が終わる。冬の厳寒の日に突然春が始まる。「夏は暑くて、秋は爽やかで、冬は寒くて、春は暖かい」と言う風に考えているのは、四季の特徴のことで、暦では、今日で夏が終わるんだ。この暑さは秋の暑さで残っている暑さなんだ。だから立秋が過ぎた後は、〈暑中見舞い〉でなく〈残暑見舞い〉というんだそうだ。それの図示を考えていた。頭の中で4つの山を描いたりグラフを描いたりしていた。そして、四季を表現するのは、連続性、だから、やはり円か、それともメビウスの帯的なものか。メビウスがかっこいいなと思う。「樹雨屋」の原稿が進まない。きのう、ブックオフへ行ったら「世に住む日日」があったので、四巻買ってきた。

今日の「固有時との対話」
長い時間わたしはどれほど沈黙のなかに自らの残された純潔を秘さうとしてきたか しかもわたしはそれを秘しながらひとつの暗蔭な季節を過ぎてきたと信じてゐた 〈結局〉 とわたしは考へる 〈わたしはむしろ生存の与件の与件よりも虚無の与件をたづねてゐたのではなかつたか!〉 且てわたしはわたしの精神のなかにある建築を使役することが出来なかつた わたしはむしろ形態あるものの亡びてしまつたあとに それを自らの記念碑として保存しようとするだけであつた しかもそれを保存することで わたしはわたしの生存に何を寄与しようとするのかわからなかつた あるひはわたしの寄与しようとしたものが悪意のうちにかこまれて消え去つたといふことでわたしはひとびとに判らせることを諦めてしまつたのかもしれない わたしの建築はそのときから与件のない空洞にすぎなくなつた わたしはいまそれを暗い空にむかつて索さうとしてゐた 扶壁・窓々・円柱・むなしく石材に刻まれた飾窓・まるで無人のすでに亡びさつた生存の象徴のやうに としつきわたしは孤独とか寂寥とかひとびとが漠然と呼びならはしているものの実体としてそれを守つてきたのではなかつたか(吉本隆明)

今日は長かつた

8月5日(水)
今日の朝は樹雨屋の編集をしていて、ブログが書けなかった。その後も忙しくて、さっき帰ってきた。去年も書いたが、忍達和尚の法要。苦役の免除を直訴した和尚。これからも行事は目白押しだ。今日は「固有時との対話」お休み。

8月6日(木)
やはり、「政治の幅は生活の幅よりも狭い」そんな埴谷雄高の言葉だった。広島でそんな言葉を知った。昨日のテレビで、「核ミサイルを自衛隊が運搬することはできるのか?」という質問に対して、政治家が「可能だ」もちろん後に何か「だが……」とか「でも………」とかの言葉が続くのだが、そう答弁していた。70年も前に政治が動いて、8月6日という結果が残った。アメリカは戦争を終結させる為だという。ヒロシマに原爆が落ちたのは、国と国の政治のやり取りの結果だった。政治の幅はそのこと(ヒロシマに原爆が落ちたこと)を道具のように時々取り出してはいじくりまわしている。被曝して死んでいった人、家族を喪った人、被曝して生き抜いてきた人。そのこと(ヒロシマに原爆が落ちたこと)はその後の生活を多かれ少なかれ支配してきたのだろう。体験は語られるだけでなく、隠されようとしたことも、生活をしていく上で必要な方法だったんだということも、広島で暮らして知った。今年も日吉台小学校で、ヒロシマへ修学旅行に行く前の六年生に自分のささやかなヒロシマ体験を話す。そのとき政治の取り上げ方でなく、生活の目線を大事にしていきたいと思う。

今日の「固有時との対話」

つひに何の主題もない生存へわたしを追ひこんだもののすべてをわたしは わたしの精神のなかにある建築に負はせた ひとびとはいつか巨大な建築のふとした窓と窓の間に赤錆びた風抜きを見つけ出すだらう

わたしはわたしの沈黙が通ふみちを長い長い間 索してゐた
わたしは荒涼とした共通を探してゐた(吉本隆明)

8月7日(金)
書き留めていかなければ思考は進まない。昨日は広島カープが86の背番号をつけて試合には負けた。NHKのニュースウォッチ9を視ていたら、広島の原爆で死んだ人の引き取り手のない遺骨のことが放映されていた。70年前の8月6日、女の人が母親を探していた。あたり一面に倒れている人たちは誰もかれもが焼きただれていて同じに見える。母親を探すために、その人は倒れている人たちを踏んづけていったという。顔や形では判断はつけられないが、声を聞けばわかると考えたから、そして周りの遺体を踏んづけていったが母親はわからなかった。戦後その女性は引き取り手のない遺骨を遺族に届ける活動を続けた。今、その人は95歳、介護施設で暮らしている。もう一つ、ある女学校の教頭が書いた校務手帳が見つかってそれに綴られた、8月6日が書かれていた。学徒動員に出発するために校門に集合していた2年生が原爆にやられた。キャスターはいう。いつまでも忘れてはいけないと原爆が落とされた日は何月何日と答えられない人の割合が増えているという。

8月8日(土)
昨日からお盆の休みをもらった。今日は朝から樹雨屋17を書き直していた。なんとかできた。編集者にみせてまた書き直す。来週は18、19ぐらいまで書き上げたい。

今日の「固有時との対話」

《追憶によつて現在を忘却に導かうとすることは衰弱した魂のやりがちのことであつた わたしは砂礫の山積みされた海べで〈どこから どこから おれはきたか〉といふ歌曲の一節によつてわたしのうち克ち難い苦悩の来歴をたしかめようとしたのだ むしろたしかめるといふよりも歌曲のもつてゐる時間のなかにまぎれこもうとしたのだ(吉本隆明)

8月9日(日)
今日は自治会のお盆の準備がある。昨日も忙しかった。とりあえず今日の「固有時との対話」

砂礫の山積みはたしか築岸工事に用ひるためのものであつたろう あたりに人影もなく 赤い工事用のカンテラがほうりなげてあつた……〈昔は!〉とわたしは思つたものだ 昔はどうにもあつかひかねる情感の過剰のためによくこの海辺をおとづれたものだがと… ああ〈昔は〉といふことばがどんなにみすぼらしいものであるかを考へるとわたしは羞耻を覚えざるを得ないのだ わたしの魂の衰弱にむかつて またいまはいくらか狡猾さによつて無感覚になつてゐるわたしのこころに対して…(吉本隆明)

これを書き写しているうちに頭が動き出してきた。昨日が立秋だった。昨日から残暑の秋が始まった。今日は、もう秋で、秋がしっとり、物寂しいといううのは、過酷な戦いの後とか、華やかな祭りの後に似ている。シンデレラのお城の時計が12時に近づくようなものだ。一生がそれの繰り返しなのだろう。別に何かがあったわけではないがそんなことも思う。

8月10日(月)
今日も忙しい。8時半に行くまでに、お昼にお客さんがくる準備をしなければ。だから、今日の「固有時との対話」は
パス。

8月11日(火)
朝、6時から昨夜の後始末。盆の行事が続く。閉ざされていた時代はこれも風流だったのだろう。流れる時に寄り添って時間を過ごしていく。先人たちの中にはそういう人たちもいたと、宮沢賢治は書いている。生き生きと楽しく暮らしていたと。「樹雨屋17」も中々進まない。

8月12日(水)
何か落ち着かない。今日は、朝起きてから久しぶりに「青空物語」を開けて、何行か書いた。「樹雨屋18」の下書きもやった。でも落ち着かない。わかっている。気になっていることを全部やって仕舞えば落ち着くのだろう。草刈りにオショライサンの準備、掃除、洗濯。樹雨屋18の仮アップ。
今日は、小川珈琲で書いているので、今日も「固有時との対話」は休み。

8月13日(木)
昨日の夜、逮夜(たいや)のおつとめがあった。どれぐらいあるのだろう、長い数珠を輪にして8人の大人が座ってそれを両手で持って右へ回していく、数珠の中にはお坊さんが座って「南無阿弥陀」を唱え、その座に来ている全員が一緒に合唱する。「数珠くり」といって初七日、二七日…と
逮夜のたびに集まって回す。ぼくは昨日の夜「数え役」をやった。白木の箱の上に十万と書いた札を9枚一万と書いた札を10枚置いて、数珠に目印の房がついてあるのだが、その房が回ってくるたびに一万の札を移動させる。10枚移動させると、十万の札を箱から落とす。100回回すと終わり。そのあとお坊さんからお話がある。昨日は、身口意、身は体、口は言葉、意は気持ち。その3つが一体となって、「南無阿弥陀」を百万遍唱える。亡き人を浄土へ送る助けとなるらしい。そして、今日は、虚空蔵さんというお堂でお念仏がある。お盆真っ最中である。

久しぶりに、今日の「固有時との対話」

わたしはその頃 わが家のまへのアスファルト路が夏になると溶けてしまふのを視てゐたものだ そうして貨物自動車が通つた跡には歯型のやうなタイヤの痕跡が深く食ひこんでそれからしばらく経つた頃 道路工夫が白と黒のわく木を立てて補修にやつてきた 彼等がわたしの追憶に残していつたものはやはり赤いカンテラなのだ…(吉本隆明)

8月14日(金)
昨夜は平尾という地区の虚空蔵菩薩へのおまいりががあった。知恵、知識、記憶の仏虚空蔵菩薩。この地域には四つの集落があり、その4つの集落一つ一つに仏がまつってあるお堂がある。ぼくの住んでいる下仰木には観音菩薩、上仰木には薬師如来、辻が下には地蔵菩薩、昔はそれぞれのお参りに日にそれぞれの集落で盆踊りがあった。子どもや若者の夏の楽しみだった。そういうものがもう、必要性がなくなってきたのだろう。盆踊りをやっているのは、今では上仰木だけだ。祭り事もも二極化されてきている。それを憂うわけではないが、やりきる力の蓄えが減少しているのは確かなことだろう。今日の午後は笹神輿作り。お盆は忙しい人には忙しい。

今日の「固有時との対話」

わたしは知つてゐる それから以後何処と何処で赤いカンテラに出遇つたか! そうして不思議なことにその赤いカンテラの形態も道路工夫たちの衣服も〈若しかするとその貌も〉少しも変わつてゐないことであつた そうして彼等のツルハシの一打ちがほんの少ししかアスファルトをえぐらないこともまつたくおなじであつた

何という記憶! 固定されてしまつた記憶はまがふかたなく現在の苦悩の形態の象徴に外ならないことを知つたとき わたしは別にある場所を逃れようとは思はなくなつたのである》(吉本隆明)

8月15日(土)
今日も八坂神社祭、笹神輿、そのあと、十王堂の掃除、飾り。1日が潰れる。10時前に自治会館へ行った。掃き掃除、餅まきの準備。そして宮司さんが到着。祭礼の準備。祭礼が始まったのが11時ギャラリーは無し。四人が玉ぐしを納め、御神酒をいただく。11時半頃、笹神輿が出発する鐘の音が聞こえる。笹神輿が到着して、お祓(はら)い。それから餅まき。紅白の餅とお供えを二階のベランダからまく。それからビールを飲みながら世間話。次は4時から十王堂の掃除。それまで、休憩。今日は暑さが戻ってきた。

今日の「固有時との対話」

且つてわたしにとつて孤独といふのはひとびとへの善意とそれを逆行させようとする反作用との別名に外ならなかつた けれどわたしは自らの隔離を自明の前提として生存の条件を考へるように習はされた だから孤独とは喜怒哀楽のやうな言はばにんげんの一次感覚の喪失のうへに成立つわたし自らの生存そのものに外ならなかつた

おう ここに至つてわたしは何を惜むべきであらう

ただひとつわたし自身の生理を守りながらくらい時圏が過ぎるのを待つのみであつた ひとびとはわたしがわたしの部屋にもあの時間の圏内にも何の痕跡も残さなかつたといふことを注視するがいい(吉本隆明)

8月16日(日)
今日は十王堂のおまいりがある。7時半集合。正面に十王の像がある。真ん中に閻魔大王。右から秦広王(不動明王)、初江王(釈迦如来)、宋帝王(文殊菩薩)、五官王(普賢菩薩)、閻魔大王(地蔵菩薩)、変成王(弥勒菩薩)、泰山王(薬師如来)、平等王(観世音菩薩)、都市王(勢至菩薩)、五道転輪王(阿弥陀如来)、蓮華王(阿閦如来)、抜苦王(大日如来)、慈恩王(虚空蔵菩薩)。昨日その左手の窓際に机を置き、赤鬼、青鬼、天秤、首の像。その後に三つの掛け軸。掛け軸には地獄絵。針山地獄や、地獄の釜が描かれている。

今日の「固有時との対話」

自らを嚙む蛇の嫌悪といふ言葉でいまはその思考を外らしてしまふより外ない 何故ならその時間の圏内でわたしの思考はすでに生理のやうに収着して剥離しないものだから ひとびとはわたしの表現することのなかつた沈黙を感じ得ないとするならば 或いはわたしの魂の惨苦を語りきかせることは無意味なのだ(吉本隆明)

8月17日(月)
昨日はお墓参りをして、とりあえずお盆が終わった。

今日の「固有時との対話」

そんなとき人間の形態〈わたしの形態〉はいつも極限の像で立ち顕れた 魂は秘蹟をおほひつくしているとまことしやかに語る思想家たちに告げなければならぬ あたかも秘蹟を露出させるかのやうにあきらかに発光する人間の極限の相(すがた)があることを こんなことを言つてゐるわたしを革命や善悪の歌で切断してはなるまい あたかもひとびとが物を喰わざるを得ないようにその時わたしの孤独はたくさんの聖霊を喰はざるを得なかつたのだから わたしは匂ひのない路上の無限を歩んだ 匂ひが時間の素質に外ならないと知つたときわたしはこの路上の寂寥を誰とも交換することを願はなかつた(吉本隆明)

8月18日(火)
昨日は資生園は人手が足りているといううのでお休み。盆の疲れも取れていなかったので嬉しかった。今週末にもまだ行事が残っているが、昨日は久しぶりに何もなかった自由な日だった。私設編集者に樹雨屋17,18,19を読んでもらった。石窯の説明がもっといるだろうということで、石窯とパンをのはなしを今週は直していくつもり。

今日の「固有時との対話」

〈そうして自らが費やした徒労の時間をいつまでも重たく感じたことのために 残されたわたしの生存はひとつの影にすぎなくなつたのか!〉

長い生存の内側を逆行したときたとへ微小な出来ごとに過ぎないとしても 且て一度でも自らを自らの手で葬つたことのある者は あの長い冬の物象をむかへるために 感覚を殺ぎ 哀歓を忘れ 幾重にも外殻をかぶつてしまつたわたしの魂の準備を決して嗤ふまい そうしてわたしはあたかも何ごとも起こらなかつたやうにはじめてひとつの屈折を曲つていつた この生存が限りなく長いことをわたしはひとつの美と感じなければならなかつた それは何といふ異様な美しさだつたらう はじめに水のやうに触感された生は しだいに屈折を加へていつた わたしは自らのうちに自らを計量しながらつまり完全に覚醒しながら歩まねならなかつた(吉本隆明)

8月19日(水)
今日の「固有時との対話」

孤独の中に忍辱することは容易であつた けれどすべての物象がわたしの眼に重量と質とを喪つてしまひそれに従つてわたし自らも感度を摩滅せしめてゆくということを怖れてゐた 生存の与件がすべて消えうせた後にんげんは何によつて自らの理由を充たすか わたしは知りたかつた わたしにとつて理由がなくなつたとき新しい再生の意味がはじめられねばならなかつたから わたしの行為は習慣に従ひわたしの思考は主題を与へられなかつた(吉本隆明)

いつから書き写し始めたのか本のページにして12ページを書き写した。あと10ページある。写経と似ている。意味など気にしないで書き写している。朝起きて、寝床の中でiPadの電源を入れる。自分のホームページを開いて〈8月第4週〉
をタップして編集ページにする。何も浮かばない。そんな時は今日の「固有時との対話」。「孤独の中に忍辱することは容易であつた」と書き写す。孤独という言葉が最近は使われなくなったと思う。昔、この言葉は普通に使われていた。吉本が書くように、孤独を選択して何かを見つけようと。清志郎の「烏合の衆」という歌もそんな歌詞だった。そして「生存の与件がすべて消えうせた後にんげんは何によつて自らの理由を充たすか」の箇所で苦悩とかいう言葉が浮かぶ。思考とか恣意とか言う言葉も同時に浮かぶ。それから…何を書き出そうか。
2日ほど前に、GYAOで「リンダ、リンダ、リンダ」を視た。別に解説するつもりはないが4人の女子高生の一人一人がおもしろかった。「幾重にも外殻をかぶつてしまつたわたしの魂の準備を決して嗤ふまい」メチャクチャみたいだけど、どこかで気を使いながら、それなりに繋がっていて切り離せない者同士みたいに生きている。
今日は資生園、午後から。夜には逮夜まいり。その隙間で、「樹雨屋」と「青空物語」を書いて行こう。

8月20日(木)
今日は母をマッサージに連れて行かなければならないことになって、資生園の仕事を午前中に回してもらおうと連絡をとったが、午前中はカッパを着て外の作業なので、休んでもらってもかまわないということで、お休みをもらった。
外は雨。近所の友だちが駅まで送ってくれというので雄琴温泉駅まで送っていった。その帰り、車の窓から百日紅(さるすべり)の木が見えた。ここにもあるんだ。昨日、笹神輿を処分するために友だちと二人で軽トラに乗せて、河原の近くの自治会所有の空き地まで運んで解体した帰りにも見た。もう何日も前のことだが、お天気キャスターが百日紅の話をしていた。100日間咲く花というのでこの漢字があてられたそうだ。その話を聞いたあとで、知人の葬式の日に東光寺の庭に咲き誇る百日紅を見た。八坂祭を準備している8月の15日に、八坂神社(八坂神社といっても京都の八坂神社ではない。地元にある八坂神社)の下でも見た。ついでに笹神輿の話を書いておこう。
笹神輿、ぼくらが子どもの頃、8月の14日に地域の若者が集まって笹神輿を作っていた。竹やぶから竹を切り出し、竹の枝をはらい、さらにその枝の枝をはらう。そうすると、①太い真っ直ぐの長い竹、②先に葉っぱの残った枝、③笹の葉のついた枝。3つのパーツができる。何本も何本も切り出し、みんなで3つのパーツを作り、①のパーツで切り込みを入れて三角形の部品を作り、4つの三角を組み合わせて四角錐の骨格を作る。次に③の笹を丸めてまくらのような部品を何個も作る。これを四角錐にくくりつけて、その上を②で綺麗に化粧をして荒縄でしばる。本体ができた頃に子どもたちが集まって来て、花を集めに行く。若者に着いて行って「ササミコシの花ください」と言いながら、畑に咲いてある花を集めてくる。その花を②のえだの間や荒縄の間に差し込んで、花がいっぱいの神輿が出来上がる。それを15日の日に作った場所から八坂神社まで担いで行く。ぼくの子供の頃は神輿が大中小と3つあった。その後ろに樫のきを一本切り倒して引っ張っていた。家の前の井戸から神輿に水をかけていた父の記憶がある。その行事も一度なくなった。そして小規模になったが復活した。
今年は、祭りが終わったあと、関西の大学の祭りを研究しているという大学生の集団が訪ねてきた。後の祭りだったが、話を聞いて帰っていった。

今日の「固有時との対話」

如何なるものも自らの理由によつて存在することはない しかもわたしはわたし自らの理由によつて存在しなければならない 生存がまたとない機会がであると告げるべき理由をわたしはもつてゐなかつた しかも既に生存してゐることを訂正するためにわたしの存在は余りに重く感じられた わたしの魂はすべての物象のなかに風のやうに滲みとほつてしまひ わたしの影もまた風の影のうちに一致した わたしはただありふれた真昼と夜とを幾何学の曲線のやうに過ぎてゆくだけであつた ひとびとが実証と仮証とをうまく取ちがへてゐるその地点を!(吉本隆明)

「如何なるものも自らの理由によつて存在することはない しかもわたしはわたし自らの理由によつて存在しなければならない」偶然生まれてきたこの時代に、自分はどう生きていけばいいのか。そして、歳を重ねるとまたどう生きてきたのか、また、残された時間を存在していく理由を見つける為に書いたりしているのだろうか。

8月21日(金)
今日もなかなか書き出せない。時間のたつのが早いとか遅いとか、そんなことを考えている。生きるとか死ぬとかのことも考えている。でもなかなか書き出せない。学校のこととかはあまり考えなくなった。授業の自慢話ととかを書いていた時は楽しかった。とりあえず、頭の中は毎日忙しい。しなければならないことがいっぱいある。でも、その中に、したくないこともいっぱいある。そんなことが憂鬱につながっていくのだろう。

今日の「固有時との対話」

〈愛するものすべては眠つってしまひ 憎しみはいつまでも覚醒してゐた〉

わたしはただその覚醒に形態を与へようと願つた

羞耻がわたしの何処かに空洞となつて住つてゐた ひとびとはきつと理解するだらう わたしが言ふべくして秘めてきた沢山の言葉がいまは沈黙の建築をつくりあげてゐるのを 光に織られた面と面との影はまるで時々のわたしの羞耻の截面であつたし 差しこんでくる光束はわたしの沈黙の計数を量るやうに思はれた しかも決つして自らにも狃れようとしないその沈黙の集積を時は果してどうするか 不明がわたし自らのすべてをとざしてゐた(吉本隆明)

「狃」という字に手間取った。紐という字はしっている。音読みは知らない。ケモノヘンで検索したら見つかった。ジュウ、なれる。ネットは便利だ。「しかも決つして自らにも狃れようとしないその沈黙の集積を時は果してどうするか 」ここ何日も書き写している行為は時を待っている心境のように感じた。時はどうするのだろうか。

8月22日(土)
昨日は観音堂の縁払い。観音堂の周りに盆の始まる頃に縁を立て、盆の終わる頃にその縁をしまう。その初めと終わりに、観音講の方々が御詠歌を唱える。十一面千手観音。観音菩薩は人々の苦を取り除いてくださるという。昨日のお経の中で、阿修羅(アシュラ)、迦楼羅(カルラ)、緊那羅(キンナラ)というのが聞こえてきた。2回聞こえてきた。法華経の中で釈迦が観世音菩薩のことを語る下りのお経らしい。観世音菩薩は救いの仏で、その人が困っていて、阿修羅の姿をして、その人の前に現れればその人が救われるのなら、阿修羅の姿に返信してその人の前に現れるということらしい。最近お経を聞く機会が多くなった。時々調べて見るのも面白い。今日は観音経を調べてみた。

今日の「固有時との対話」

わたしはただわたしの形態がまことに抽象されて もはやひとびとの倫理のむかふ側へ影をおとすとき 自らの条件が充たされたと感ずるのであつた

独りで凍えさうな空を視てゐるといつも何処かへ還りたいとおもつた ひとびとが電灯のまはりに形成してゐる住家がきつとひとつ以上の不幸を秘してゐるものであるのを知つてゐたのでいづれかひとつの住家に還らうとは決して思はなかつた すると何処かへといふのは漠然とわたしの願望を象徴するものであつたらしい しかも願望の指さす不定をではなくまさしく願望そのものの不定を象徴するものであつた(吉本隆明)

「ひとびとが電灯のまはりに形成してゐる住家がきつとひとつ以上の不幸を秘してゐる」夜汽車の窓からみえる沿線の住居のあかりはなんとなく寂しげに見える。その灯の下では幸せいっぱいの人が暮らしていてもそう見えてしまうと昔、永六輔がラジオで言っていた。白熱電灯が蛍光灯にかわり、LSDに変わってもそう見えるのは自分考えたことで、「住家がきつとひとつ以上の不幸を秘してゐる」と言い切るとまた違ってくる。

8月23日(日)
今日は地蔵盆の準備。8時から始まる。竹をとって花筒作り。昨日は縁つぶしが終わった。40分ぐらいで終わった。背中が痛い。

今日の「固有時との対話」

わたしが了解してゐたのはただわたしのやうなものにもなほひとつの回帰についての願望が必要だといふことであつた 言いかへればわたしの長い間歩むできた路上がやがて何処かへ還りつくといふことのある侘しげな感覚をわたしが宿命のやうに思ひなしてゐるといふことであつた 一体いつごろからわたしは還りゆく感覚を知りはじめたか しかもその感覚がわたしの生存にどのやうな与件を加へ得たか!

「回帰についての願望が必要」この頃吉本隆明は何歳だったのだろう。

8月24日(月)
昨日は地蔵盆の準備。どこも地蔵盆だ。買い出しにでた堅田も雄琴も。朝8時に当番のものが集まって、竹の切り出し。花筒と団子の串を作る。帰ってきて、テントを立てる。それから買い出し。花屋で金銀の蓮の造花と色花の造花、和菓子屋で付け菓子、米屋(最近はスーパーでも売っている)で団子の粉、それから金銀の色紙、文房具屋が休みだったので雑貨屋で買う。午後は飾りと、団子作り。今日は本番7時に集合。これで21日から始まった連続4日のお盆の締めくくりが終わる。

今日の「固有時との対話」

〈わたしは過去と感じてゐるものが遠い小さな風景のやうに視えるといふことで 歩んできた路の屈折の少いことを嘆くべきであらうか 誰もが過去を時間から成立つてゐる風景として考へざるを得ないといふことが どんなにわたしたちの生存を単調なものに視せたか知れない〉(吉本隆明)

「遠い小さな風景のやうに視える」そのことは安心ではないのか。おだやかというのは安心ではないのか。

8月25日(火)
台風が近づいているそうだ。今日は朝から雨。もう大津広報がくる頃だ。
今日の「固有時との対話」

わたしが依然として望んでゐたことは 過去と感じてゐる時間軸の方向に ひとつの切断を 言はば暗黒の領域を形成するといふことであつたらしい それゆえわたしが何処かへ還りたいと思ふことのうちには わたし自らを埋没したい願望が含まれてゐなければならなかつた(吉本隆明)

なんかホッとしている。昨日は、東光寺で露乃マルコさんの落語を聞いた。二席、チリトテチンと仏教落語と言うのだろうか。お釈迦様がレジ係を務める。マンズの川の手前のスーパーの物語。高齢者の笑い声が気持ちよかった。

8月26日(水)
「ボクたちの交換日記」をGYAOで視た。映画館で予告編を視た時は、観に行こうと思っていた。でも映画館を出てしばらくして、封切り日になっても、行きたいというう気持ちにならなかった。GYAOで見つけたのもだいぶ前だったが、見る気はしなかった。3日前くらいに見始めたが、少しずつ、3日に分けてみた。いま、見終わって、映画館で見ておけばよかったと後悔している。若い頃は、ハシゴをしても、見たい映画は全部見ていた。今日は「ボクたちの交換日記」を視ながら、なぜだろうと考えていた。きっとこんなスジなのだろうと考えて、自分で納得してしまったから見に行かなかったのだろううとうと考えた。そして、次は観たいと思ったら、いこうとおもったがどうなるかわからない。伊藤淳史、小出恵介主演、内村光良監督。後半三分の一は泣きっぱなしだった。今、樹雨屋で日記を小道具に使おうとしているが、もっと考えないといけないと反省している。
昨日、私設編集者に褒められたことがある。コメダ珈琲で原稿を見せて、この言い回しが気に入ったと言ってボールペンでアンダーラインを引いてくれた箇所がある。「花瓶にネコヤナギがしっとりしていた」こんな言い回しをもっと使えと言う。いっぱい出したら、飽きられるというか、進みにくいと答えた。感謝している。意見を言ってもらえるおかげで
書き進めていける。その後、「言語にとって美とは何か」の話をして、法華経と観音経の話をして別れた。菩薩と如来の違い、菩薩は修行中の仏様。法華経を彼に勧めたのは何故だろう。忘れてしまった。去年日吉台小学校へ行っていた時に、朝の読書の時間に岩波文庫の法華経と雨月物語を読んでいた。もう一年が過ぎる。運動会には訪ねて見ようと思う。でも時間は過ぎると関係は気薄になってしまう。足だな足繁く通わなくちゃ。関係を持続するために。足が動いている間は。

今日の「固有時との対話」

あはれなことにわたしは最初わたしの
生存をうち消すために無益な試みをしてきた その痕跡はわたしのうちに如何なることも形態に則してなされてはならないといふ確信を与へた しかもひとびとが為してしまつたことをあらためて異様に為したことのために またひとびとが決して為さなかつたことをためらひもなく為したことのため わたしはたくさんの傷手を感じなければならなかつた

「その時からわたしの思考が限界を超えて歩みたいと願ひはじめたと言へる」昨日、私設編集者は吉本のこの態度のことを批判した。人を見下したような言い方を批判して、「お前の性格とこんなに違う人物の本を、お前が好んで読むのがわからん」と言った。僕は、「偉そうに言っている人に対しては喧嘩を売るが、基本的には弱者の味方なんだ」と擁護した。「ひとびとが為してしまつたことをあらためて異様に為した」「ひとびとが決して為さなかつたことをためらひもなく為した」それはそれ、もっと謙虚な言い回しでと彼、私設編集者はいう。

8月27日(木)

今日は、「自虐の詩」をユーチューブで視た。阿部寛、中谷美紀。

今日の「固有時との対話」

* * *
時刻がくると影の圏がしだいに光の圏を侵していつた そればかりか街々の路上や建築のうへで風の集積層が厚みを増してゆくのであつた わたしはただ自然のそのやうな作用を視てゐるだけでよかつたのかどうか 滑らかな建築の蔭にあつてわたしのなかを過ぎてゆく欠如があつた(吉本隆明)

8月28日(金)

朝からシイタケ日記を書いた。昨日コンビニに行ったら「Bily Bat」17が置いてあって買ってきた。日々思うことはたくさんあるのだが、いざ書こうとすると浮かんでこない。どこかへ逃げていく。そういうときは、誰かのところへ行って話をする。対話という脳活動を大切にこれからもしていきたい。昨日はコジャックで宮沢賢治の『春と修羅』
を読みながら、体を冷ました。
………わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽霊の複合体) 風景やみんなといつしょに せわしくせわしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける…………
なんか落ち着く。でも、「固有時との対話」は歩き続けなければ、というような使命感を感じさせてくれる。

今日の「固有時との対話」

つぎつぎに降りそそいでくる光束は 寂かな重みを加へて わたしはその底にありながら何か遠い過去のほうからの続きといつたような感覚に捉へられてゐた しばしばわたしの歩むだ軌道の外で喧騒や色彩がふりまかれてゐたとしても わたしは単光のうちがはを守つてきたのではなかつたか とつぜんわたしには且ての日の悲しみや追憶のいたましさやむごたらしかつた孤独やらの暗示が ひとつの匂ひのやうに通り過ぎてゆくのを感じなければならなかつた おう まさしくわたしがわたし自らの単純な軌道を祝福するために 現在は何びともしなくなつた微小な過去のできごの追憶を追はねばならない ひとびとが必要としなくなつた時 わたしはそのものを愛してきたのだから この世の惨苦にならされた眼はいつも悲しいわけではない ただひとびとの幸せをふくんで語られる言葉にふと仮証を見つけ出すときだけ限りなく悲しく思はれた

「いつも悲しいわけではない ただひとびとの幸せをふくんで語られる言葉にふと仮証を見つけ出すときだけ限りなく悲しく思はれた」最近、時々悲しく思うことがある。例えば喫茶店で、例えば車を運転している時に、例えば、人と話をしている時に。哀しいが落ち込みだとすれば、悲しいはなんだろう。生存そのものなのだろうか。ややこしいことを考えるのはよそう。
これを書いて、麹味噌の振込、ゲンさんのパン、クリーニングの受け取り。そして図書館。昭和の風俗史の本を2冊借りてきた。

9月29日(土)
朝か天神川の川沿いの草刈りをちょっとした。明日、「彼岸の道作り」という昔からの行事というか作業がある。稲刈り前の共同作業だ。今は農道もアスファルトで道路横の草を草刈機で刈っていく。昔は道路の補修だったのだろう。ぼくが子どもの頃、荷車は牛が引っ張っていた。自治会の役に入って、昔から残っている行事に時々なくなっていれば良いのにと思ったり、なくなったらもう復活しないのだろうなという二つの思いを持つことがある。自治会の行事だけではない。なくなったものが記憶に残っている間はそれでもいい。なんか樹雨屋を連載しているが、「樹雨屋15」のアクセス数だけが増えている。15は夢の場面を書いた。なんかわからないが、ちょっと嬉しい。第二章でホタルの場面を書こうと思っているが、そこもちょと違った書き方をしようかなとか思っている。

8月30日(日)
8月も今日と明日で終わる。昨日はゆっくりと世界陸上を視ていた。フィールドで女子の走り高跳びを流しながら、トラックの決勝、400リレーはジャマイカがとった。今日は、女子マラソン、夜は男子走り高跳びと決勝種目1500等。昨日より派手さがない。ボルトが出てきてから、ボルトタイプの選手がこれから出てきて、記録を塗り替えて行くんだみたいなことが言われたが、誰も出てこない。そして、一人で走っている。引っ張っている。

今日の「固有時との対話」

風と光と影の量をわたしは自らの獲てきた風景の三要素と考へてきたのでわたしの構成した思考の起点としていつもそれらの相対的な増減を用ひねばならないと思つた それゆえ時刻がくるとひとびとが追想のうちに沈んでしまふ習性を 影の圏の増大や 光の集積層の厚みの増加や 風の乾燥にともなふ現在への執着の稀少化によつて説明してゐたのである わたし自らにとつても追憶のうちにある孤独や悲しみはとりもなおさずわたしの存在の純化された象徴に外ならないと思はれた(吉本隆明)

「自らにとつても追憶のうちにある孤独や悲しみはとりもなおさずわたしの存在の純化された象徴に外ならない」
孤独や悲しみがものを書いたり、考えていたのだろう。

8月31日(月)
昨日、私設編集者から、添削ができたという連絡があり、コメダ珈琲で指導を受ける。樹雨屋18への注文があった。恭平と堀田にもっと語らせろという。朝からその手直しをしていた。本当に彼のおかげだと思う。一人で書いているより、誰かに見てもらえて、書き直していくと安心だ。青空物語が進まない。でもアクセスは多い、特に🇺🇸からのアクセスが多い。真剣に書かなければと毎週思っている。

今日の「固有時との対話」

わたしは不思議といふ不思議に習はされてゐたしまた解き明かすことも出来た だから突然とか超絶とかいふ言ひ方でそれを告知されることを願はなかつた ただわたしたちは現在でも不思議といふことをわたしたちのこころの内部で感ずることが出来た そしてあの解きうるものにちがひない現象が こころに与へた余剰といふものを不思議と呼び習はしてきた(吉本隆明)

「あの解きうるものにちがひない現象が こころに与へた余剰といふものを不思議と呼び習はしてきた」
次の節を書き写せばこの意味がわかるのだろうか。今日はここまで、続きは明日。

昨日も世界陸上を視ながら、酒を飲んでいた。男子高飛びも結構いい。カタールのバーシム選手結果は残念だったが良かった。

9月1日(火)
今日から学校は新学期。雨、行きづらい子もいるのだろうな。現役の頃は、前日か前々日に家庭訪問をしていたことを思い出す。学校に勤めていた頃は、学校のリズムが全てだった。今日、体育館に集まって、学校長の話を聞いて、教室へ戻り、宿題を出して、大掃除をして帰る。教師は、山のような宿題を整理して、昼食を食べに行く。そしてため息。
話は変わるが、Unaited Statesからのアクセス数が増えてきた。総カウント数でJapanを40人も越えてしまった。どんな人たちが見ていてくれるのだろう。気になる。8月の初めは日本のアクセス数はアメリカからのアクセス数を150人ほど上回っていた。8月に追いついて来て、終わりには追い越した。そして、差をひろげている。気になる。
昨日は、資生園が休み。樹雨屋の20をなんとか直した。青空物語は書けなかった。今週の目標「青空物語の16話を終わらせて、樹雨屋を21、22、23ぐらいまで書いてしまう」

今日の「固有時との対話」

だから触覚のあるひとびとが空のしたですべての物象が削がれてゐると感じたとしてもそれはその通りであつた けれど昨日と明日とがすでにわたしたちの生存のまはりに構成されて在ると知つたとき そして昨日と明日とに何か附与することで生存の徴しとしたいと願つたとき あきらかにそこに不思議といふ呼び名を与へねばならない何かが現れた 何故ならいたるところの空のしたで わたしたちの生存は時を限定したいと感じてゐたに相違ないしまた時は決してわたしたちによつて限定されないものに思はれたから その限定にかけられたわたしたちの欲望がもしかしてわたしたちのこころに余剰を呼び覚ますかもしれなかつたから(吉本隆明)

「昨日と明日とに何か附与することで生存の徴しとしたいと願つたとき」そうなんだ考えるゆえに我ありみたいなことなんだ。その後の言い回しも好きだ。「いたるところの空のしたで わたしたちの生存は時を限定したいと感じてゐたに相違ないしまた時は決してわたしたちによつて限定されないものに思はれたから その限定にかけられたわたしたちの欲望がもしかしてわたしたちのこころに余剰を呼び覚ますかもしれなかつた」

9月2日(火)
スポーツジム「コジャック」のスタッフが代わった。もう20年以上通っていて、ずっとお世話になっていた。会社が変わったそうだ。ちょっと前と言っても、一ヶ月以上前だったような気がする。受付の中に違う制服の人が入って、引き継ぎのような雰囲気があった。何日か前に、「飯田さん、私たち今月いっぱいで終わることになりました。お世話になりました」とあいさつされた。やはり、何かが終わるのはさみしい。小川珈琲も駐車場にチェーンがかかっている。TSUTAYAも閉鎖したままだ。

今日の「固有時との対話」

わたしたちは自らの足が刻んでゆく領域さへ何らかの計量を加へることで限定しようとした そして奇怪なことにその結果が意想外であることを怖れるやうにしてきた 誰もがこの生存の領域が単調である〈事実は単調そのものなのだが〉ことを忌んだのだが それも意想外のことが決して起こらないことを前提としてゐるやうに思はれた(吉本隆明)

「自らの足が刻んでゆく領域さへ何らかの計量を加へる」「意想外のことが決して起こらないことを前提としてゐる」今は亡くなってしまった作者がこの詩を書いていた孤独はすごくデリケートに書いていたんだ。まるで若者のように。この詩を書き写してきてよかった。
今日は、連作広島にもちょっと手をつけた。それを書く時に記憶が曖昧になっているので、京都の友だちに連絡。6月頃に連絡をすると言っていたのが、その後音沙汰がなかったので、ちょっとCメールを打って帰ってくるまで心配だった。いつ誰が入院するかもわからない歳が近づいてきている。返事が帰ってきて安心した。それを言ったら笑われた。23日に飲もうということになった。まだ返事は返していない。これを見ていてくれたらいいのに。行くつもりだ。

9月3日(木)
昨日はコジャックで宮沢賢治の小岩井農場を読んでいた。「春と修羅」ビブリア古書堂の事件手帖」で「春と修羅」の古本を扱った話がある。賢治は生前、「春と修羅」と「注文の多い料理店」の2冊しか出版していない。全集の解説に「春と修羅」を出版するにあたって、詩集という文字を頑なに拒んで、背表紙に小さく入れることで妥協した話があった。わたしが書いているのは、詩というような大それたものではない、ただ見たこと、思ったことを書いているだけだ。わたしの心象に写ったものをスケッチしているだけだ。と主張していたらしい。ビブリアでも取り上げられたが、その後がすごい。たとえば「小岩井農場」だったら、小岩井農場で見たこと思ったことを書き連ねているのはそうなのだが、その後、何回も推敲を重ねる。自分が出版してしまった本にを推敲する。出版で終わりじゃない人。

きょうの「固有時との対話」

もはやわたしたちの空のしたには何ものも残されなくなることを悲しみながら しかもわたしたちはすべてのものを限定したい欲望のうへに生存を刻みこんでいつた

わたしの時間のなかで孤独はいちばん小さな与件にすぎなかつた わたしはひとびとに反して複雑な現在といふものの映像を抱いてあの過去を再現しようと思つてゐた それによつてわたしが自らのうちに加へたと感じてゐる複雑さがどのやうな本質をもつものであるかを知りうるはづであつた

「自らのうちに加へたと感じてゐる複雑さがどのやうな本質をもつものであるかを知りうる」次の節でもう少しわかりやすくなるはずだ。

9月4日(金)
昨日は横川へ行ってきた。月参請の添護摩料を納めにだ。山の上はひんやりして寒かった。中学生の頃まで、歩いて上がっていたのに、盆踊りが終わって山道を帰ってきた。でも、今は、子どもなんかいないのだろうな。今日は、小学生のお迎えパトロールがあるので、資生園は午前の出勤にしてもらった。

9月5日(土)
今日の「固有時との対話」
言ひかへるとわたしは自らの固有時といふものの恒数をあきらかにしたかつた この恒数こそわたしの生存への最小与件に外ならないと思はれたし それによつてわたしの宿命の測度を知ることが出来る筈であつた わたしは自らの生存が何らかの目的に到達するための過程であるとは考へなかつたのでわたし自らの宿命は決して変革され得るものではないと信じてゐた わたしはただ何かを加へうるだけだ しかもわたしは何かを加へるために生きてゐるのではなく わたしの生存が過去と感じてゐる方向へ抗ふことで何かを加へてゐるにちがひないと考へてゐた

「固有時」「わたしの生存が過去と感じてゐる方向へ抗ふことで何かを加へてゐるにちがひない」そのことで複雑さを加えられるのか。

9月6日(日)
今日の「固有時との対話」

かくしてわたしには現実とは無意識に生きる場であつたし時間とはそれに意識的に抗ふ何ものかであつた わたしは現実から獲取したもので何らか形あるものはすべて信じなかつた わたしはただわたしの膨脹を信じてゐたのだ そして膨脹を確かめるために忍耐づよく時間に抗はねばならなかつた(吉本隆明)

昨日は久しぶりにゆっくり眠った。昼寝をした。昼寝は痴呆の予防だと聞いたことがある。脳は疲れると眠りを要求してくる。それに応えるのはなかなか難しい。できたら眠りたい。今日もカープが負けた。でも力はある。今年がダメなら来年がある。

9月7日(月)
昨日は樹雨屋21をとりあえずの形でアップできた。今週で「春分」の項を終わらせたい。今日の朝、同級生から電話があって、魚の煮たのをもらいに行ってきた。一時間ほど喋って帰ってきた。

9月8日(火)
なんか1日の訪問者の数が気になって仕方がない。開いたら、カウントを確認している。そして、訪問者の数が増えていないとがっかりしている。昨年の9月16日から、訪問者や閲覧数、それにアクセスしたひとの国別、読み物の項目ごとのカウントなどが見られるようにしてくれた。もうすぐ一年になる。初めの頃は多い方からいうと、日本、アメリカ、中国、フランスの順で比率は4:2:2:1ぐらいでウクライナやロシアが続いていた。一番初めに、コメントをもらったのが中国からで、グーグル翻訳にかけるとお褒めのコメントだったので嬉しかった。昨日は、樹雨屋の21をアップして、加筆して、なんとか私設編集者に見てもらえるところまで出来た。それから、22の下書きに取り掛かっている。

今日の「固有時との対話」

〈ああ いつかわたしはこの忍耐を放棄するだらう
そのときわたしは愛よりもむしろ寛容によつてわたし自らの睡りを赦すであらう〉

こころは限りなく乾くことを願つた 極度に高く退いた空の相から わたしはわたしの宿命の時刻を選択した 風の感覚と建築に差しこむ光とそれが構成してゐる影がいちやうに乾き切つてゐることでわたしは充たされてしまつた わたしのこのうへなく愛したものは風景の視線ではなく 風景を間接的にさへしてしまふ乾いた感覚だつたから 果てしなくゆく路上でやはり風と光と影だけを感じた(吉本隆明)

「風の感覚と建築に差しこむ光とそれが構成してゐる影がいちやうに乾き切つてゐることでわたしは充たされてしまつた」
風と光と影の三つの要素が乾ききっているというのは、落ち着きなのか、諦めなのか、安定なのか、開き直りなのか

9月9日(水)
重陽の節句。名前は聞くが、あまり取り立てられることがない。五節句の最後、陽が重なる。菊にまつわる菊酒。その程度。昨日も私設編集者とコメダ珈琲で「編集会議」編集会議と言っても新聞記事太宰治の手紙、宮沢賢治、法華経のことを話して、最後に樹雨屋21を添削してもらう。それから、図書館へいって、東直己、と新藤兼人と森の本を借りてきた。それから、ボランティア、コジャック、結構忙しい。シイタケ日記を書いて、カープの結果を見て1日の終わり。カープは勝った。「固有時との対話」の書き写しも終わりが近づいてくる。

今日の「固有時との対話」

わたしを時折苦しめたことはわたしの生存がどのやうな純度の感覚に支配されてゐるかと言ふことであつた 言ひかへるとわたしはわたし自らが感じてゐる風と光と影とを計量したかつたのだ 風の量が過剰にわたるときわたしの宿命はどうであるか 光の量に相反するする影の量がわたしのアムールをどれだけ支配するだろうかと 言はばわたしにとつてわたしの生存を規定したい欲望が極度であつた(吉本隆明)

「風の量が過剰にわたるときわたしの宿命はどうであるか 光の量に相反するする影の量がわたしのアムールをどれだけ支配するだろうか」光と影が相反する関係にあるそれを繋ぐものが風である。昨日、三木成夫の本を読んでいた外壁系と内臓系の話の中で、体壁系のことを説明する時に、体壁は三者で出来ていて、皮膚(これは感覚を受け取る)筋肉(これは動き)、神経(これは伝達)この三者の関係は感覚で感じてから動くという風に理解してはいけない。例えば「犬も歩けば棒に当たる」というように、動いていて感覚にぶち当たることもある。じゃあその間の神経は何を伝達するのか。ただ伝達するのみ。三者の関係を思い出した。

9月10日(木)
今日の「固有時との対話」

わたしをとりまいてゐる風景の量がすべてわたしの生存にとつて必要でないならば いや その風景の幾分かを間引きすることが不都合でないならばわたし自らの視覚を殺すことによつてそれを為すべきであつた しかもわたしがより少く視ることがより多く感ずることであるならばそれを為すべきであつた わたしは感ずる者であることがわたしのすべてを形造ることに役立つてきたと考へてゐたから(吉本隆明)

「不都合でないならばわたし自らの視覚を殺すことによつてそれを為すべきであつた」感ずる為に、考える為に。

昨日は暴風警報の為、資生園の仕事は休み。樹雨屋21の書き直しをする。22も書いた。早く春の章を終わってしまいたい。
昨日のカープは引き分け。

9月11日(金)
朝からホームページの整理をしていた。樹雨屋22がアップできたので、樹雨屋をメニューに入れて整理した。今、9時15分。窓から、運動会の放送が聞こえてくる。中学校か。開会式というのは結構恥ずかしい物だ。今、注意事項を教師が伝えている。開会式が終了して、ラジオ体操。

今日の「固有時との対話」

わたしは風と光と影との感覚によってひとびとのすべての想ひを分類することも出来たであらう 且つての日画家たちが視覚のうちに自らを殺して悔ひなかつたやうに わたしは風と光と影との感覚のうちにわたしの魂を殺して悔ひることがなかつた わたしの生存にはゆるされたことがたつたひとつ存在してゐた(吉本隆明)

「わたしの生存にはゆるされたことがたつたひとつ存在してゐた」次と次の節に出てくる。

9月12日(土)
今日の「固有時との対話」

ひとびとはあらゆる場所を占めてゐた そして境界は彼等のイデアによつて明らかに引かれていた 若しかしてわたしの占める場所が無かつたとしたら わたしはこの生存から追はれねばならなかつたらうか

〔投射してくる真昼間の光束よ〉
〈わたしがたいそう手慣れて感じてゐる風や建築の感覚よ
わたしはわたしが索めてゐるのにあのたぐいがみつからないといふことのために それらを理由もなく喪はれなければならなかつたのか!

否! まつたくそれは理由のないことに思はれる 若し場処を占めることが出来なければ わたしは時間を占めるだらう 幸ひなことに時間は類によつて占めることはできない つまり面をもつことができない わたしは見出すだらう すべての境界があえなく崩れてしまふやうな生存の場処にわたしが生存してゐることを 其処でわたしは夢みることも哀愁に誘はれて立ち去ることも またひとびとによつて繋がれることもない 刻々とわたしは静かに歩み去るだけだ(吉本隆明)

「若し場処を占めることが出来なければ わたしは時間を占めるだらう」宇宙という字は宇が時間。宙が空間を表すといわれている。朝、何か書くことがあるのに書くことを忘れてしまったので、書き写していたら思い出した。何日か前に三木成夫の本を読んでいたら、人間の体内時間は24時間+アルファなのだそうだ。そしてそれが
宇宙のリズムなんだ
という。人間の内臓には宇宙のリズムが入っているという持論だ。実験で、時計も無い、朝昼晩の光も感知できない場所で人間が過ごすと1日に一時間ぐらい遅れてくる。起きるのも、寝るのも、食事を取るのも、排便をするのも。そして24日たつと元に戻る。夜型、朝型の問題をそのことで説明していた。矯正が必要なんだ。宇宙の宇はビッグバンから始まったといわれる、時間は決して止まることはない。宇宙の宙、宇宙空間は膨張を続けている。時間について考えることが時々ある。時計の時間と自分の時間の関係。それと他人の時間と自分の時間の関係。そして一生の時間。うまくまとまらない。

9月13日(日)
今日の「固有時との対話」

若しもわたしが疲労した果てに わたし自らの使命を告げることをひとびとが赦してくれるならば……それを語るだろう すべての規格されたものによつて ひとびともわたし自らも罰することをしないことだと!

わたしは限界を超えて感ずるだらう 視えない不幸を視るだらう けれどわたしは知らない わたしはやがてどのやうな形態を自らの感じたものに与えうるか あの太古の石切り工たちが繰り返した手つきで わたしは限りなく働くだらう(吉本隆明)

今日は午前10時の映画館、ジェームスディーンの「エデンの東」を観てきた。映画館っていいな。後半泣きっぱなしだった。以前テレビで視たことがある。BSのジェームスディーンの特集だったと思う。「理由なき反抗」とか「ジャイアンツ」も視たつもりだった。一緒に行った私設編集者は、帰りの車でアカデミー賞の話をする。圧倒的に実話の映画化が取る確率が多いそうだ。でも、今日本に入ってくる映画はアクションとバイオレンス。アメリカは映画の母なのだろう。後、「秋刀魚の味」と「さらば友よ」を見たいと思った。
今日もカープが勝った。コジャックで三木成夫を読んでいたら、阪神ファンの人から「センセイ、カープ勝った」と教えてもらった。カープは負けていない。でも、ヤクルト、阪神、巨人も落ちてこない。ここまでやってくれれば満足。

9月14日(月)
今日の「固有時との対話」

わたしたちの行手を決定してゐたものは且てわたしたちのうちにあつた けれど最早 暗い時間だけがまるで生物の死を見定めるようにわたしを視てゐるだけであつた(吉本隆明)

「暗い時間だけがまるで生物の死を見定めるようにわたしを視てゐるだけであつた」暗い時間という感覚はなんとなくわかる。それが見定めめるように見ていてくれているのならそれでいい。

明日が9月16日去年のこの日にアクセスのカウントが見られるように友だちがしてくれた。この一年間少しづつ、アクセスしてくれる人が増えて来ている。励みになる。今日も、ちょっとだけ「広島」を書いて、「樹雨屋」を書いた。「樹雨屋」の下書きをしているときに1時間もかけて書き直した文章が消えてしまった。書き直すのもうんざりだったが、なんとか書けてアップできた。

9月15日(火)
Count per dayという機能があるから、それが見られるようにしてあげようと、このホームページを作ってくれた友だちがやってくれたのが2014・9・16日から。ちょうど今日で一年になる。
「一年間の数字」総訪問者数7568、総閲覧数7472、月別訪問者数2014・9月125、10月356、11月288、12月290、2015・1月266、2月262、3月376、4月542、5月461、6月589、7月763、8月962、9月405
国別閲覧数Japan2821 United States2741 China572…………… 国別訪問者数United States2821 Japan1827 China572………
カウントを入れてもらってから、カウントを見るのが日課になってしまった。数字って怖いと思う。でも励みにもなる。

今日の「固有時との対話」

〈時間よ〉 わたしがそれににんげんの形態を賦与しようと願つてきた時間よ わたしはその条件を充すために 自らを独りで歩ませなければならないであらう わたしは習慣性に心情を狃(なら)されることで間接的に現実の危機を感覚してゐた わたしは現実の風景に対応するわたしの精神が存在してゐないことを どんなに愕いたことか わたしの不在な現実が確かに存在してゐた(吉本隆明)

「わたしの不在な現実が確かに存在してゐた」「現実の風景に対応するわたしの精神が存在してゐない」こう抜き出して、確かにそうだといろいなな場面をえがいて文字を見つめているが、そのことを文字にするのは恥ずかしい。若い頃は適当に言っていたが。今は書き写して、しばらく考えるだけでよい。

9月16日(水)
昨日は、私設編集者に樹雨屋22、23を渡して、宮沢賢治の話とかをコメダ珈琲でしていたが、改装の為11時に閉まった。その後、図書館へ行って沖縄を調べる。
沖縄には「もあい」という風習があるのだそうだ。もあいというのは例えば10人の仲良しがいて、その10人が一人2万円ずつ出す。合計20万になるので、それを1人が持っていく。誰が持っていくかは話し合いで決める。困っている仲間を助ける風習みたいだ。誰かが損をするわけではない。必ず20万円を受け取る順番がやってくる。昔から行われている風習だと書いてあった。

今日の「固有時との対話」

わたしはほんたうは怖ろしかったのだ 世界のどこかにわたしを拒絶する風景が在るのではないか わたしの拒絶する風景があるやうに……といふことが そうして様々な精神の段階に生存してゐる者が 決して自らの孤立をひとに解らせようとしないことが如何にも異様に感じられた わたしはむかしながらのしかもわたしだけに見知られた時間のなかを この季節にたどりついてゐた(吉本隆明)

「そうして様々な精神の段階に生存してゐる者が 決して自らの孤立をひとに解らせようとしないことが如何にも異様に感じられた」

9月17日(木)

* * *
とつぜんあらゆるものは意味をやめる あらゆるものは病んだ空の赤い雲のやうにあきらかに自らを耻しめて浮動する わたしはこれを寂寥と名づけて生存の断層のごとく思つてきた わたしが時間の意味を知りはじめてから幾年になるか わたしのなかに とつぜん停止するものがある
〈愛する人たちよ〉
わたしこそすべてのひとびとのうちもつとも寂寥の底にあつたものだ いまわたしの頭冠にあらゆる名称をつけることをやめよ

「とつぜんあらゆるものは意味をやめる」「わたしのなかに とつぜん停止するものがある」突然やめたり、突然停止したりするという感覚、でも知らないあいだに始まっていることがある。そのとき「寂寥と名づけて生存の断層のごとく思つてきた」ものをどう見つめていくかの時間をぼくは持っていなかった。

9月18日(金)

今日の「今日の固有時との対話」

わたしは知ってゐる 何ごとかわたしの卑んできたことを時はひとびとの手をかりて致さうとしてゐる もつとも陥落に充ちた路を骸骨のやうに痩せた流人に歩行させ 自らはあざ嗤はうとしてゐる時間よ わたしは明らかにおまへの企みに遠ざかり ひとりして寂寥の場処を占める わたしの夕べには依然として病んだ空の赤い雲がある わたしは知つてゐる わたしのうちに不安が不幸の形態として存在してゐることを(吉本隆明)

「わたしは明らかにおまへの企みに遠ざかり ひとりして寂寥の場処を占める」そんな場所がほしい。そのためにこの詩を隆明は書いたのか、批評を込めて。

今日は午前中の出勤。幌トラックの幌の金具の矯正。なかなか難しい。

9月19日(土)

今日の「固有時との対話」

〈愛するひとたちよ〉
わたしが自らの閉じられた寂寥を時のほうへ投げつけるとき わたしを愛することをやめてしまふのか わたしの寂寥がもはやいつも不安に侵されねばならなかつたとき おまへはわたしの影を遠ざからうとするのか わたしの不安のなかにおまへの優しさは映らなかつた すでに陥落に充ちたむごたらしい時が わたしのすべてをうばつてゐた(吉本隆明)

後一節で「固有時との対話」の書き写しが終わる。この詩は註によると1950年に書かれた。
「ここではただ一九五〇年においてぼくは精神の内閉的な危機において現実の危機を写像しつつあつたことを註しておきたいと思ふ」と締めくくっている。

今日は山へシキビを取りに行った。一人で山に入るのは怖いのでいつも小説を添削してくれている編集者を誘って行った。ヒノキの植林の中に自生のシキビが生えている。それをとってきて彼岸のお墓へ持っていく。コメダ珈琲の改装が終わっていた。喫煙席に扉が取り付けられた。そして、大テーブル。何か列車の喫煙車両のようになった。

9月20日(日)
今日はお墓に行ってきた。昨日山でとってきたシキビを持って。

今日の「固有時との対話」
明らかにわらしの寂寥はわたしの魂のかかはらない場処に移動しようとしてゐた わたしははげしく瞋らねばならない理由を寂寥の形態で感じてゐた(吉本隆明)

これで「固有時との対話」の書き写しは終わり。これでまた読み返すことができる。書き写すと行為は、吉本隆明に言わせると。足で書くと同じほどの効果があるという。自分の小説では使えない単語を書き写すことで、次の小説「身は水素より軽ければ」に反映できたらいいのになと思った。
9月21日(月)
今日は7時30分に交通安全の立ち番にいかないといけない。一昨日からお彼岸か。昨日はお墓とお寺へ行った。カープが三連敗。今年はもう諦めるか。実力は認めた。今から、樹雨屋22の書き足し。
今日、同級生の現役漁師をやっている。この春に花見に行った、ところへ行ってきた。守山へモロコを届けるのでついて行った。そこでシジミを3キロ買ってきた。1日砂出しをして、冷凍した。明日から、朝の味噌汁はシジミ。コメダ珈琲へ行って樹雨屋23の下書き。今日のカープはどうなるのだろう。
今日は早めの夕食の支度をして、喜界島を飲んだ。美味しい。東直己。探偵シリーズでアードベッグを知った。南支署シリーズで喜界島を知った。美味い。
ルナ、ルーナ、ディアナ、セレーナー、みんな月の女神。天動説と地動説。これから、どう書いていこうか。

9月22日(火)
今日は、朝から、カシワの炊き込み御飯を作って配る。樹雨屋24の下書きが止まった。進まない。
「時のいたずらだね、苦笑いだね。冷たい風が、今、吹き抜けるだけ……………………」松山千春の曲をかけながら、書いている。今日、クレジットが五百円余っていたので、2曲ダウンロードした。海援隊の「恋不思議」と加山雄三の「旅人よ」
悩んだ。iTunesStoreーで、検索して、、越路吹雪で引っかかった。お座敷ソングを歌っている。東雲小唄、結構気に入ったが、ダウンロードしなかった。

9月23日(水)
今日が秋分の日。これから冬に向かっていく。その前にやらなければならいこともたくさんある。田んぼも終わっていない。畑の準備もまだだ。今日は、京都で友だちと飲む。四月の、雨の中の琵琶湖花見以来だ。3時からビアホールで待ち合わせ。広島での記憶を修復してこよう。広島といえば。この前図書館で借りた「新藤兼人」は廿日市の山の方の生まれで、広島に帰って来るたびに、広島の花崗岩(かこうがん)覆われていくことを嘆いていた。花崗岩の白い道が好きなんだそうだ。溝口健二に師事して、シナリオを見せた時に、ここにはストーリーしか書いていません。ダメです。と言われたそうな。ところで、昨日のカープはどうなったのか。怖くて結果が見られない。昨日スポーツナビを覗いたら、三回、1たい2でヤクルトに負けていた。怖くて見られない。おととい中継を覗いていたらDeNAに負けてしまった。今確認したら負けていた。
9月24日(木)
昨日は、京都で飲んできた。二日酔い気味で何をする気にもならない。楽しいと次の日が辛い。そんな毎日を広島で過ごしていて、何十年ぶりかでその頃飲んでいた。友だちと飲むことになる。昨日もたくさん飲んだ。そして、たくさん記憶を蘇らせた。電話も二つした。もちろんその頃の友だちに。それもあってか、今日は疲れている。
二日酔いにはウコンかシジミ。冷凍してあるシジミで味噌汁をこさえて飲んだ。なんか、リトル、フォレストみたいな気分になった。何もする気がなくて、先ほどgyaoでみたリトルフォレストのことも忘れていた。昨日、京都に約束の時間より、2時間前について、階段を降りていたらカバンの紐が取れた。不吉な予感である。カバンを止めるものは何もない。ブックセンターへ行って、文房具コーナーを見たが、何もない。安全ピンを探していたがそれらしい棚を見つけるが安全ピンはない。クリップや、布ボンドがあるのに、ホッチギスやハサミはたくさんあるのに。諦めて、本を見たが、カバンが壊れているので一冊も買わなかった。本屋で本を探すために早く行ったのに、時間が余った。喫煙所のベンチで「世に棲む日日」を読んで時間を潰す。面白い。松陰寅次郎は面白い。彼の旅は人文地理的考察をする旅だと司馬遼太郎は言う。

古(いにしえ)に仿(なら)えば今に通ぜず
(古学ばかりの世界に密着しすぎると、現今ただいまの課題がわからなくなる)

雅を択(えら)べば俗に諧(かな)わず
(格調の正しい学問ばかりやっていると、実際の世界のうごきにうとくなる)

松陰は(聖武記附録)を葉山佐内に借りて読んで、これは自分が以前から考えていた通りだと感嘆したと書いてある。

3時1分前に「ライオン」に京都の友だちと入る。大阪の友だちに電話をすると店の前だという。貝の名前が、アムール貝であっていると二人は思い、1人が首をひねった。店の人に聞いてムール貝だと言われ、3人とも納得した。間違いに疎くなってきている。寮にいた頃の話ばかりをした。これも間違って覚えていたことがたくさんあった。その後もう一軒回って帰ってきた。

9月25日(金)
明日は日吉台小学校の運動会。どうだろう。昨日も今日も雨が降っている。延期になれば、自治会の山の作業とぶつかってしまう。この二日間のあめはきつい。稲刈りができない。
今日は電話が入って椎茸が休み。進撃の巨人を見てきた。友だちが昨日BSで製作裏話を見たからという理由で見に行った。コンピュータグラフィックでなく、着ぐるみでの撮影だと言っていた。

9月26日(土)
日吉台小学校の運動会へ行ってきた。つくし学級で弁当を食べた。男四人で楽しく食べた。「運動会、って誰が始めたんだ」って話題になったので。北海道大学が最初にやったそうだと答えたが、あっ、そうみたいな感じで話が続かなかった。今回が34回目らしい。去年も出会ったのだが、二人の教え子にであった。一人は、それこそ、第2回運動会のとき六年生、もう一人は第4回のとき六年生。

9月27日(日)
今日が中秋の名月。今日は山の作業。夏にやっていた作業を秋に回した。涼しかったが、草、ススキは伸び放題。しかも硬い。どちらがいいのか、考えていかなければならない。賛否両論。その慰労会のバスが6時に迎えに来る。一つ一つ行事は終わって行くが、稲刈りはまだ終わらない。こんな苦しみを知らない人の方が多いんだろうな。コジャックで東直己「誇り」を読み終わった。読み終わるまでコジャックにいたので。これを書く時間がなかった。運動会の事も、書きたい。

9月28日(月)
教師になって初めての運動会は中学校。不幸があった。夏休み明けの一年生の学年練習。行進や隊形の練習。退場門まで移動し、もう一度入場門に集合の号令があって、生徒たちは、駆け足で入場門の方へ。「Sくんがたおれた」すぐに保健室の先生を呼びに行く。誰かが心臓マッサージ。そして、心臓マッサージを養護教諭と交代して、養護教諭は「救急車の要請を誰かに伝える。職員室へ教師が走る。すぐに救急車はきた。その時まだSの心臓は動いていた。彼はよく自転車に乗って友だちとぼくの下宿に遊びに来ていた。数学の時間は滅多に手を挙げなかった。休み時間は職員室へよく来ていた。友だちの一番うしろにいつもいた。漫画を読んで、ぼくの作った昼飯を食べて、きちんと「ごちそうさまでした」と手を合わせて。楽しそうに友だちとふざけていた。職員室で連絡を待つ。重苦しい。そして、連絡があった。病院は歩いて行ける距離。病室へ入ると、黒の学制服を着たSの兄が白いベッドのまえに立っていた。コブシを握り、頭をうな垂れて、肩が震えていた。13歳だったS、ご両親も同じ心臓発作で亡くなっていたことを後で知った。彼がお世話になっていた。お家へ放課後にお葬式の準備に学年の教師みんなで行った。お葬式に彼が出棺するときの同級生たちの声が忘れられない。警笛が鳴った途端。全員が声を上げた。それまで我慢していた声が、鳴き声が轟いた。Sは遺影での運動会参加だった。多分、ぼくが、この仕事にのめり込んでいったのはここだったと思う。Sとは普通に教師と生徒の関係で、ぼくが反対の立場だった時、この先生は、他の先生と違う。教師たち全てが認める一部のお気に入りを素直に認めない。ちょっと今までの先生とは違う程度の気休めだったのような気がする。相性だけの問題だったのだろうぐらいに今は思う。Sが持っていた事情などぼくは何一つ知らなかった。知らなくても済む世界だ。それを知らされた時のショックは結構きつかった。かわいそう、で終われなかった。一人の体育教師は月曜日の一時間目の体育の授業を指摘した。教師たちの話し合いも、結構シビアだった。逃げなかった。彼は、彼の体のリズムは、夏休み明けのしかも休日あけの月曜日の一時間目の体育はそれでよかったのか。その言葉は心に残った。自分が体育主任をしている間はそれを押し通した。体育館、運動場、プールの使用に月曜の一時間目は外した。でも、そんなことしかできなかった。
学校のことになると自慢話になる。今週は自慢話を続けるかもしれない。お葬式も終わって、自分も含めて、忘れていくことが、若かったのだろう。我慢できなくなり、Sのいたクラスの数学の授業の始めに、黒板に死者という字を書いた。女の子たちは、「やめて」と言った。今でも何人かの顔を思い出すことができる。若かったのだろう。生意気に「死者は忘れ去られてはいけない」と言った。その時本当に儀式(葬儀)が終わって、Sがいたことが一日一日薄れていくことが(本当はそれでいいのかも知れない)が嫌だった。クラスの子どもたちも嫌だったのだろうと思う。ぼくは数学の授業の中でそれを言っただけだった。子どもたちはその日から、部活の先輩やSの友だちに原稿を依頼して文集を作った。誰が言ったんじゃないと思うが、新聞にもそのことが報道された。そ次の年から、福山市では、中学1年生の心電図を撮ることになった。ぼくの中学校のイメージ。
その次の年、採用試験に受かって小学校の教諭となる。もう一度中学校へ帰りたかった。明日は、次の年勤務したマンモス小学校の運動会にまつわる話。

PS
写真を替えた。今日はスーパームーン、昨日の中秋の名月の写真を今日のスーパームーンに替えました。

9月29日(火)
日吉台小学校で、お昼ご飯を食べていた時に、彼が話していたことじゃないけど、運動会って何なんだ。正式に採用されて、1年目の運動会。放課後は毎日職員会議だった。8時、9時は当たり前で、10時を越えた時もあった。その小学校は、ぼくが赴任した4月に、分離していて、全校児童数が2,000にんをきっていたのに、秋にはもう2,000人に迫る勢いで膨らんできていた。ぼくが担任した三年生は、一クラス37、8人で8クラスあった。練習計画にしたがって、毎日練習する。そして、放課後は、学年の話し合い。小道具や配置図、放送原稿の検討、それが終わる頃放送が入り、職員室へ教職員は何人いたのだろうか、教員だけでも60人はいた。徒走の等賞を続けていくのか、廃止するのか、そのことを賛成派反対派が議論していく。何日も何日も議論していた。その頃、職員室での喫煙は禁止されていなかったので、職員室はタバコの煙が充満していた。管理職、体育部、校長派は等賞(一等、二等、三等のリボン)を続ける。学校長からは「命をかけても、この伝統を守る」とか「教育は本来保守でなければいけない」という発言があったことを覚えている。反対派は、走ることが苦手な児童の意欲についての意見が具体的にあげていた。「等賞が欲しいがために練習の時は、手を抜いて、本番は真剣に走るような風潮がある」。その対立は等賞の背景の問題だったのだろう。他にも色々な対立軸があった。今思えば、この対立は隠れた所で効果をあげていたように思う。今ではおざなりにされている走る練習が運動会の練習にうまく組み込まれていたし、運動会の計画や、予行演習の後の話し合いも真剣だった。予行演習、入場行進、一等、二等という言葉、もうあまり聞くことがない。今は組体操の議論か、現場ではそんな対立はないのに、マスコミが取り上げている。どちらへ流れるのかはわからない。
明日は3校目、組体操のことを書くつもりだ。

9月30日(水)
今日はやっと、稲刈り。運動会の事が書けないかもしれない。疲れた,それに右手中指の先をコンバインで削がれた。ほんの0.5ミリ、軍手をしていてよかった。でも、疼く。運動会、昔の組体操はこの次に。今日は休みます。

10月1日(木)
第3校目の運動会は新設校。新設校の運動会、多分1年目は分離をする前の小学校の運動会をベースにして運営していったのだろう。組み体操は笛の合図で、一人技、二人技、三人技………と集団の人数を増やして行って最後は真ん中に塔を作る。塔はその頃四段だった。下から、12人、6人、3人、1人。人間ピラミッドは合図で一斉に体を伸ばして崩れていたと思う。ぼくは、小学校の時も、中学校の時も体が大きかったのでいつも土台だった。毎年、毎年、新しい技を開発していくというような感じではなく、パターンは落ち着いていた。やはり、メインは四段の塔だった。5年生と6年生の合同で行い。練習の時間の最後に、全員が注目する中で四段の塔を立てる。教師は全員が集まる。12人が肩を組んでしゃがむ。その上に6人が乗って肩を組みしゃがむ。下の段の児童の両肩に上の段の児童の足がのっている。その上に3人、そして1人。下の段から声を合わせて立っていく。一番下がきれいに立てるまで何日もかかる。今みたいに立体的ではない。最後は全員が直立する。見せるというより作るだけが目的のような競技だった。毎日毎日、少しずつしか塔は伸びない。大概が運動会前日に立ち上がる。日吉台小学校にいた四年間はそうだった。
10月2日(金)
その頃、大津市内で音楽に合わせて、組み体操をやる学校がでてきた。そこで、日吉台小学校も組み体操に音楽を入れようということになった。音楽に合わすので、時間が限られてくる。一人技も二人技も、三人技も、失敗すれば、待つ姿勢で待たなければならない。緊張は高まる。もちろん塔も同じ。塔が主役で他は脇役、脇役の中には、フィナーレのときに、三人技や、二人技、一人技で列を作っている子どもたち。そこで5年生はムカデを作ることにした。一クラスで一匹のムカデ。三十何人かが両腕をついて腹ばいになり後ろの人の肩に足を乗せて、じっと待つ。最後に腕を立てて足を伸ばす。地味で、危険はないが、一人一人の失敗は許されない。地を這っての脇役だった。6年生は四段の塔、と三段の塔。組み体操は指導要領から消えた。それでも今、残っている学校がほとんどだ。他府県は知らない。明日は法事があるので、書けるかどうかわからないが、次は僻地校の運動会を書くつもり。

10月3日(土)
僻地校に勤務して、驚いたのは、運動会が9月の15日に行われることだった。今でこそ運動会が9月に行われているが、その頃は大抵10月の初めだった。夏休みが終わって二週間しか練習がとれない。保育園、小学校、中学校、地域を合わせた運動会。こんなにたくさんの人がいるんだと関心するほど人が集まってくる。午前は、保小中の種目。午後は一般。前日準備もみんなでやる。準備が終わったら地域の人と酒盛り。反省会も地域の人と合道。組み体操は三年生以上、前任校で使った音楽を借りてくる。三段の塔のてっぺんは三年生。地域の人の拍手が暖かかった。勤務して四年目、山村留学生がやってきた。昼食のあと「大サーカス」みたいな得意技披露の種目を入れた。一年生から6年生まで、自分の得意技を披露する。司会がよかった。司会は大津市内の小学校からやってきた男の子。マイクを持って進めていく。盛り上げ方が上手い。一躍有名になった。地域の人や中学生の用具係の人が跳び箱、トランポリン、鉄棒などを並べてくれる。一人一人の紹介の仕方や技のコメントも全部一人で考えた。中学生の走る姿も印象的だった。
アメリカで日本みたいな運動会をやったら大ブーイングだろう。でもここの運動会はすごくいい。地域に移り住んでいるカメラマンの人の奥さんはアメリカから来た人、その人の感想だ。次はちょっと変わった運動会の事を書くつもり。

10月4日(日)
昨日は法事、今日は披露宴、とりあえず一つ一つが過ぎていく。今日は運動会を書けないが、朝から、広島を書いていた。

10月5日(月)
こう書いて来ると、運動会って、本当に学校によっても違うものだと思う。次の学校も新設校。1年目は別れる前の学校をベースに運営された。お互いの学校の運動会の見学に行って、交流もした。1年目の運動会が終わって、来年は新しい運動会を作ろうと、学校長からの提案があった。1年目に「あっぱれ祭」という文化祭みたいなものを試みて、それが上手くいって好評だったこともあっての提案だった。
「さとりんピック」という名前も、「あっぱれ祭」と同じように全校児童から名前を募集して決定した。内容は三つに別れていて、第一部は体育科の学習発表、各学年一種目。第二部は体力測定、三年生以上が、各クラスで体力を測定する場を作って、児童はコーナーを回る。第3部はエントリー競技。スエーデンリレーやマラソン保護者も参加。
10月6日(火)
第一部を考える時、その種目の特性を児童が理解しているのかがポイント。例えば短距離走だったら加速、長距離だったら自己のタイム、ハードル走だったら、リズム。ゲームだったら、勝つ喜びと負けた時の悔しさ。跳び箱だったらキレイに跳ぶこと。そんなことを考える。第二部は忍者修行のようなものもあったし、ストラックアウトみたいなものもあったし、一輪車競争みたいものもあった。バケツに氷と塩を入れて、何秒耐えられるかというような種目もあった。第三部は保護者も参加。保護者には不評だった何年間か続けて結局はもとに戻ってしまった。

10月7日(水)
次の学校でソーラン節と太極拳。組み体操に疑問を持っている教師も結構いる。アンチテーゼかどうかわからないが、ソーラン節や荒馬、エイサー、太極拳などが出てきた。その学校へ赴任した時は組み体操に物語が加わっていた。バイキングか何かのストーリーだった。車椅子の児童が入学してきて、その子が高学年になった頃に、日本人学校から帰ってきた教師の提案で、組み体操をソーラン節に、その次の年に荒馬、その次の年は太極拳。地域に太極拳のサークルをやっている人がいて、そこで教えてもらい、運動会で発表した。今年、テレビやネットで中学生のピラミッドが崩れる動画が流れている。現場にいた頃、危険か危険でないかで運動会の種目を決定したことはなかったと思う。どんな競技でも危険がつきまとっている。それはみんな承知している。次は最終校、競技のインフレについて書いて終わろうと思う。

10月8日(木)
組み体操は、毎年技の開発が更新されている。講習会、雑誌やネットでそれを仕入れてきて、短期間でやらなければならない。2人組の技サボテン。一人の膝の上にもう一人が立ち、両手を開いてポーズをとる。サボテンとか倒立とか、飛行機は三人だが、どうしてもうまくできないのなら、メンバーをチェンジして技を完成させる。ああでもない、こうでもない、試行錯誤することにが学習だった。しかし練習時間は、一番の見せ場、フィナーレのために取られる。二人技、三人技は指導者がメンバーを変えていく。より完成しやすいメンバーに。完成形も毎年新しくなるので子どもたちにイメージはないのじゃないかと思う。力学的にみると、一人一人の負担は軽くなっている。しかし複雑になり、一人一人が一個の部品。ここも、力の入れ具合、バランス、タイミングを学んでいく学習場面は削られている。事故の心配、親からの賛辞、そういうものが指導者を支配しているからインフレになっていくのだろう。この流れもいずれ変わるようなきがする。運動会は学習の発表の場だし、力の入れ具合や、バランス、タイミングを学習する練習計画に変えてほしいと思うのは古いんだろうか。

10月9日(金)
とりあえず、運動会は終わった。
日曜日に学区の運動会がある。今日は、「山の神講」がある。それの会計があたっているので、会計報告をしなければならない。稲刈りが終わっても忙しい。でも、稲刈りほどのプレッシャーはない。樹雨屋が書けていない。

10月10日(日)
昨日は私設編集者とコメダ珈琲でお茶をした。樹雨屋24が書けていないので渡す原稿はない。樹雨屋が進んでいないことを謝って、「ぼくの広島」という授業を読んでもらった。ここ何日間か、このページをアップして書き続けている。毎日少しずつだが増えてきている。今日も、朝から書いて、今はひと休み。

10月11日(日)
昨日は学区運動会の準備、今雨だが、今日開催されるのかどうかわからない。連作広島で、授業のことひとまず書けた。ン寮のことアップした。これから、毎日少しずつ書いていくつもり。
10月12日(月)
昨日の運動会は準優勝。曇り空で1日終わった。暑くもなく、砂埃も立たず、結構よかったと思う。今日は朝、母親の苦情で畑へ行ってきた。やらなければならないと思っていて、そのことを指摘されると、一瞬でやる気がなくなるのはなぜだろう。特に母親から言われるとやる気がなくなる。困ったものだ。
10月13日(火)
昨日は畑の草刈り、千田町を少し書いた。畑に冬野菜が植えられた。これも困難の連続だった。昨日刈った草を田んぼに運び、テーラーでいざ耕そうとしたら、アクセルがハイのまま元に戻らない。農機具屋さんへ持って行って直してもらって、耕し始めたら、今度は地面が硬すぎてテーラーが走りすぎる。何日か前に、テーラーで大怪我を知り合いの方がされた。そのことを思い出し、鍬で大きく耕してやってみることにしたが、それも大した効果がない。トラクターで耕そうとしたが、今度はトラックの後部が引っ掛かって、それが外れない。一時間弱かかって取り外せて、なんとかできて、大根、白菜、ほうれん草、ネギ、レタス、サニーレタスを植えることができた。明日からは水やり。ホッとした。
10月14日(水)
樹雨屋24を少し書いた。畑の草、堤防の草も借り始めた。イチゴの苗を買った。土も肥料も買った。最近本を読んでいない。吉本隆明「心的現象論序説」を読まなければ。
10月15日(木)
今日は日中は暑かったが、夜は冷えてきた。今は二十四節気でいう寒露、意味は夜露に寒冷を覚えるとある。酒がなくなったのでワイルドターキーを買ってきて、ホットウイスキー。こんな季節になってしまった。
10月16日(金)
昨日は年金支給日。コメダでモーニングを食べていたら、常連のリタイヤ集団が、「今日は、給料日」と言っていた。ATMへ行くと、次から次へ年取った人がやってくる。おまけに、漁師の友だちが魚を煮たので取りに来いとというので、同級生に浜へ行かないかと電話すると、郵便局へ行ってそのあと用をすますと言う。今思えば、彼も年金をおろしていたのかと思う。今の若い人は年金の知識がある。ぼくの若い頃はほとんど知らなかったことも知っている。ぼくたちの世代は、年金は積み立てたものだという感覚だが、今の若い人たちは、老人を養うものだと思っている。その方が正しい知識なんだろうけど、福祉とかいうものに義務とかいう言葉が絡んでくると、せちがらしい。
10月17日(土)
昨日は、資生園へ行くまでに時間が空いたので、図書館で「心的現象論序説」を読んでいた。心ってなんだろう。隆明はクレッチマーを引用する。
直接体験を名づけて心と呼ぶ。心とは感覚されたもの、知覚されたもの、感じられたもの、表象されたもの、意欲されたもののすべてである。(『医学的心理学』西丸四方・高橋義夫訳)
クレッチマーの〈心〉は、まず直接体験の総体であり、この体験は〈自我〉と〈外界〉にわかたれ、さらに〈自我〉から〈身体〉を捨象した残りを意味している。(吉本隆明)

10月18日(日)
昨日は法事、畑ができなかった。今日はトラクターで耕すところまでやってみたい。なんとか残った草を刈って田んぼに運ぶことができた。そのあとトラクタで耕した。これで、イチゴ、それから、玉ねぎとジャガイモの床の準備ができる。
10月19日(月)
今日は下阪本小学校へ8時にいかなければならない。脱穀。午前8時前に下阪本小学校、朝の挨拶に参加。校長を退職して、坂本小学校と下阪本小学校の挨拶の立ち番に来てくださっている先生と久しぶりに会った。お互いなんとか元気。その後、校医の先生のところへコンバインを借りに行って脱穀の授業。コンバインという名前のついた機械だが、昔からの足踏み脱穀機と原理は一緒。それを知らせたくて毎年ぼくは行っているのかも知れない。授業なのか。これも授業だ。自分では満足している。子どもたちの反応がいい。そして、その後資生園。資生園の事はシイタケ日記で。
10月20日(火)
今日は娘が遊びに行っているので一人で畑の水やり、それから川の土手の草刈り。今日で半分ぐらい終わった。昨日よりは涼しい。タンク一杯分やったのに汗が出なかった。コジャックで村上龍の「歌うクジラ」を読む。上はだいぶ前に読んだ。この前、ブックオフへ行ったら下が108円で売っていた。何年かまえに買った本だが、下をなくしたので読んでいなかった。上を読んだ時、続きを読みたいと思わなかった。だから買う気もなかった。東直己だったら最後まで引っ張るけど、村上龍のこの本はそうでもない。
10月21日(水)
朝から、樹雨屋25、千田町、青空物語第3巻をちょっとだけ書いた。
10月22日(木)
昨日、図書館で本を探した。ギリシャ神話を検索、して、山室静のギリシャ神話を書庫から出してもらった。山室静は平野謙、埴谷雄高などの近代文学同人、懐かしい名前。その後職員の人にギリシャ神話のコーナーに案内してもらって、仕事までの間、ギリシャ神話を読んでいた。ギリシャ神話の神たちは奔放だ。人間臭いというか、神そのものが人間で、その神たちが自分たちに似せて作ったのが人間という設定だ。天の神ゼウスは欲望を抑えない。全能で自分の欲望に忠実だからあらゆるものが手に入る。しかし運命の神にだけは忠実である。そうしないと自分が独裁になってしまうということをわきまえている。インドの仏教も面白いが、ギリシャの想像力も面白い。
10月23日(金)
昨日は、友だちと映画に行ってきた。「マイ、インターン」ロバートデニーロ、例によって、映画をみたら批評したくなる。帰りの車で、デニーロの出た映画をお互いが振り返る。タクシードライバー」のデニーロは何歳ぐらいだったのだろう。ぼくたちよりも年上だったのだろうから、今日の映画の年齢設定70歳か、もう少し上なのか。「レイジングブル」で体重を20キロぐらい増やして撮影したこと、「俺たちは天使じゃない」でコミカルな演技がよかったということ、「ゴッドファーザー」はデニーロが出ていた2がよかったとか、アメリカの風景は映画になりやすいとか、出だしは良かったが、途中のドタバタから、浮気への展開にちょっとがっかりしたが、あれがアメリカの価値観だろうとか話す。
10月24日(土)
近所の娘の同級生がアメリカへ出発した。午前中、娘と畑をしていて1時になったので、むすめが帰った。その同級生を送るために。畑にキャベツの苗を4本植えて帰ったので、牛フンと腐葉土と苦土石灰をはたけに撒いてトラクターで耕して帰ると、家の前に名古屋ナンバーのジャンボタクシーが止まっていて、運転士さんが家を探しているみたいだったので、声をかけると、やはり娘の同級生の家を探していた。家に案内して、荷物を積み込んで、同級生は無事出発した。それから、自分の同級生の所へ遊びに行って、ギリシャの神と、聖書の神の話をした。明日は4時起きで米原まで行くので、酒を控えめにして寝た。

10月25日(日)
家を4時に出発した。上空にオリオン座、初オリオン。まだ真っ暗だ。米原は彦根の向こう。6時何分か発の電車に乗るという。豊川稲荷のフリーマーケットに参加する娘を送っていく。娘には選択肢が 三つあった。新幹線を使う、しかしこれは売り上げと旅費 との釣り合いを考えて、一番初めに却下。次は高校の同級生が名古屋にいるので、そこへ止めてもらって、そこから豊川稲荷へのコース。3番目は在来線で、しかし、京都発では間に合わない。米原発始発電車だったら間に合う。2番と3番を悩んで、3になった。
琵琶湖大橋を通って湖周道路。いつも松岡満まで走る道路だが、街灯がなくて、右の田んぼ、左の琵琶湖は闇の中。妙に道路が狭く見える。でも道は空いている。白鳥川で右折せずに、能登川の方へ。彦根を通過するときも彦根城は見えない、その頃から、KBSのラジオは小さくなって、大陸からの放送が混じってくる。スマホのナビが右おれを支持する、時間は5時前。まだ時間がたっぷりある。少し引き返して、コンビニ、パンとコーヒーで朝飯。車でブラブラしながら時間をつぶす。6時前に娘を降ろして、確かめた長浜への道を進む。その頃から朝ぼらけ、ゆっくり明るくなって湖周道路に出ると、琵琶湖が北風で白波がたっている。トンビが必死に風に乗ろうとしている。鴨の群れが鉤形の隊形で飛んでいるが揺れて、隊形が乱れている。彦根を越える頃、琵琶湖の防波堤に波しぶき。大中を通る頃に朝陽が登ってきた。家に帰って渋柿を採って、畑の水やり、川の土手の草刈りが終わって、コメダでブログを書いている。
10月26日(月)
昨日の 琵琶湖の白波は今日の毎日新聞によると、滋賀県の北風第一号。この季節を大事にしたいと思う。ネガティヴといいったらまちがいかもしれないが、雪に閉ざされた地域では、外界と閉ざされて身近な人たちが集って春への思いを語り合う。それこそ、古代ギリシャ人やローマ人の想像力神話を作っていった状況が似ていると思われる。その時に火の役割は、鎌倉幕府の鉢の木じゃないけど、心だけは燃え上がらせる。そんな季節がやってくる。じっとじっとこの季節に深まりあれと、今日は箱火鉢の灰をきれいにした。ここに炭をいこらせて暖をとる。
10月27日(火)
昨日は厚い布団にして寝た。温かい夢を見たような記憶が残っている。夢の内容は覚えていないが。最近の朝の日課は7時45分に起きて、畑の水やりと川の土手の草刈り。それが終わって、アヤハかコメダ。それから時間があれば図書館か本屋かドライブ。昨日は葛川へ行ってきた。少年自然の家のイチョウは散り始めていた。それから資生園。今日ももうすぐ7時45分。今日は母親に言われたつるし柿をつってから畑へ行く。昨日はイチゴの苗を植えた。
10月28日(水)
本当に何日ぶりだろう、昨夜雨が降った。一雨ごとに秋が深まる。今年の立冬は11月8日。一番秋の深いところで、二十四節気(昔の暦)では冬になる。8月6日の暑い最中が立夏、それから4ヶ月。秋から冬に入る。

突然だが、『世に棲む日日」(司馬遼太郎)

……朝食である。それがすむと、寅(松陰)は二つ上の兄とともに畑へゆき、あぜ道にすわって素読をはじめる。ほどなく父の百合之助が畑へ出、耕作をはじめる。畑を打ってやがて子供たちのいるあぜ道までくると、必要なくだりを教え、教えると離れて耕しをすすめていく。終日、このようであり、毎日かわらなかった。かれらの初等教育はすべて畑でおこなわれ、一度も机の上でおこなわれたことがなかった。……初等教育の教課内容は、四書五経であった。当主の百合之助も武士であるかぎり読書時間が必要であり、しかし百姓仕事のために時間がなかった。夕食がすむと、百合之助はかならずひと息入れる。そのあとのため米を搗(つ)く。米を搗きながら書物を読む。これがために
米搗きの台の上に見台(けんだい)がとりつけられていた。江戸期三百年が教養の時代であるとすれば、それが煮つまった
この時期、長州の片田舎に住む平凡な武士までがこのようにして暮らしていたことを、この時代の歴史像を知るうえで知るべきであろう。…………

10月29日(木)
昨日の話をする。昨日は資生園が休みで、この、ホームページの関係者二人、一人はページの製作者、それと編集をしてくれている一人と三人で造形大のカフェ紀伊国屋に行って喋った。お昼時には満員になっていた。そこで思いがけない人物のことが偶然話題になった。

10月30日(金)
昨日の続き。
話題になったのはIくん。中学の時は、バレー部と生徒会で活躍していた。ぼくは高校も一緒だった。同じクラスにもなった。編集をしてくれているSくんから、春頃にI君のエピソードを聞いていた。
「Iくんのことを覚えているか?」
Hくんが話し出した。もう随分前の話だという。何十年も前の話だ。
Iくんがー突然家にやってきて、今はギリシャにいるが、日本に帰ってきて、誰かに合うのだが、時間があるので訪ねてきたという話だった。HくんとIくんは、小、中、高と同じ学校だが、そんなに 仲が良かったわけではない。ただ話を聞いていただけだという。ギリシャで仕事をしているんだろう。でもなんで自分を訪ねてきたのかわからない。という。彼は講談社に就職したんじゃないかとぼくが言うと、小学館だとHくんが言う。ギリシャで何をやってるんだと思ったが、Hくんはこっちから質問するわけにもいかず、ただ話を聞いているだけだったという。
ところが、これも偶然なんだが、ホームページを管理してくれているKくんから、Iくんの名前が飛び出した。
Kくんが阿蘇の病院にいる時に、Iくんから手紙をもらったと言う。Kくんが高校の修学旅行で事故にあい、入院しているところへ、どこで知ったか、そんなに親交があったわけではないIくんが手紙をくれたという。ぼくとHくんはびっくりした。この前二人でIくんの話をしていたと言って、Kくんから詳しい話を聞いた。Iくんが就職したのは、小学館でもなく、講談社でもなく旺文社だった。彼は高校を卒業すると東京へ出るために旺文社を受けて、受かったんだが、すぐにそこはやめたらしい。他に目的があったという。彼の生い立ちとかも知った。ぼくが持っていたイメージと全然違った。続きは明日。

10月31日(土)
Iくん、彼はスポーツマンで生徒会活動も精力的にやっていた。男の子とも女の子とも明るく付き合っている。典型的に明るい性格だと思い込んでいた。Kくんへの手紙は、Kくんがびっくりしたという。高校は違う学校だし、中学の時もあまり喋った記憶がない。どこで自分の事故のことを知って、なぜ自分に手紙を書いてくれたのか不思議に思ったという。そして、Kくんは京都の病院へ移ってきた。Kくんが入った京都の病院は、キリスト教系の病院で北野白梅町にあった。ぼくは何回かその病院を訪ねた。一人の時もあったし、友だちと一緒の時もあった。高校三年生の時から浪人時代。今でもそうだが、Kくんとは文学や歴史の話をよくする。病院ではもっぱら聴き役だった。戦国大名の高山右近や新島襄の話が記憶に残っている。Iくんも何度か病院を訪ねてくれたんだという。ぼくは知らなかった。手紙のことも今回初めて知ったのだし。
話を戻そう。Kくんによると、詳しいことは書けないが、Iくんは子どもの頃からそんなに恵まれた環境に育ったのではないという。中学校の生徒会長に立候補して敗れた事も前向きに捉えて、自分にとって凄く良い経験になったと言ったという。
昨日の話だが、Hくんの家へ行って喋っていて、彼が中学校と高校の卒業アルバムを持ってきた。両方のアルバムにIくんが写っていた。直立不動で姿勢正しく、笑顔で写っている。
Iくんは東京に出て、すぐに旺文社をやめる。彼にとって旺文社は東京へ出るための口実だったんだという。そして、その後、キリスト教の塾に入り、そこからギリシャへほとんどお金を持たずに出発したのだという。目的はアテネ大学に入学するため。アテネ大学でヘブライ語を学んで聖書をヘブライ語で読む。あの頃流行っていた「青年は荒野をめざす」だ。彼はキブツで働きながら、ヘブライ語を学んだのだという。Hくんとぼくは興味深くその話を聞いた。

11月1日(日)
昨日は近所の百か日におまいりしてきた。十王思想では、初七日から四十九日まで7人の王に裁かれる。百か日は8番目、9番目は一周忌、10番目は三回忌。百か日は平等王(観世音菩薩)、観音経というお経で、33という数字がキーナンバー。観音様は変装が上手なんだ。いろんなものに変身して現れる。そんなことが書いてあるらしい。
先週の話の続きだが、アテネへヘブライ語を勉強しに行ったIくんのことを知って、吉田松陰は、漢文を返点とか一とか二とかが書き込まれていない漢文つまり原書を読めるようになれと言ったし、お経だって、サンスクリット語を訳したものを読んだ方が面白いとHくんは言った。
この飯田勝良の小説にも、先週、英語のコメントを送ってもらったというより、最近送られてくるコメントは全部英語。日本語でのコメントはほとんどない。送られてきたコメントをコピーして、グーグル翻訳に貼り付けると日本語が出てくる。しかし内容がよくわからない。そこで、英語文を見ると少しニュアンスがわかるような気がする。
写真は近所の犬
11月2日(月)
昨夜、雨が降った。今日は畑に水やりに行かなくてもよい。
今度こそ、樹雨屋の第1章が終わるように努力しようと思う。24に苦労しているがここ2日で書き終えよう。
畑の水やりはしなくてよかったがいろいろ用事があってコメダ珈琲で、樹雨屋24を開いたのが、10時過ぎ、書こうとしたら、23が気になって書き直していたら12時、コンビニで肉まんを買って資生園へ。その様子は明日シイタケ日記に書くけど、夜は『居酒屋兆治』をみた。細野晴臣が出ていた。期待して期待して、映画館で見た時に失望したのがなぜだったんだろうと思いながらテレビで見た。明るくはなかった。大原麗子が後の現実の大原麗子と重なった。男はつらいよに出ていた大原麗子の表情は一切なかった。「あにき」で共演していた時にはあったのに。しばらく、高倉健が続くみたいだ。
11月3日(火)
図書館へ行って、西村賀子著、『ギリシャ神話ー神々と英雄に出会うー』を借りてきた。中央新書。ギリシャ神話というのは、紀元前4、5世紀に始まるという。ゼウスという天の神、ポセイドンという海の神。変に人間ぽい。キリスト教ではエホバという神がいる。イスラムでは神が世界を作るが、ギリシャ神話では、カオス、次にガイヤ、タルタロス、エロスが出てくる。しかしそれらは神ではない。カオスは神ではなく巨大な裂けめである。ガイヤは大地、タルタロスは奈落の底、エロスは抽象的な愛、ソクラテスはエロスを真面目に語る。性愛とは違う。のち、エロスはキューピットとなる。
今日は休日なので、椎茸のボランティアにはいかなかったが、菌床をもらいに行った。軽トラ一杯。後2回ぐらいもらいたい。
11月4日(水)
今から菌床をもらいに行く。今日も軽トラの荷台いっぱいの菌床をもらってきて、畑に放り込んだ。あと一回もらったら、牛糞をもらいに行って土つくりを終え、籾殻を撒いてマルチシートで包んでジャガイモを植える時期を待つ。リトルホレストでは雪に覆われて土が眠るが、この辺りはそこまで雪が降らない。今日はそれとおでん鍋を楽天で注文した。昨年は一回も使わなかったのでどこかに隠れてしまった。おでん鍋。牛すじの煮込みを作るのはこれが一番良い。一晩牛すじを大きいまま煮て、次の日に、コンニャクや焼き豆腐、長いままのネギなどを放り込んで、八丁味噌で1日煮込む。やはり冬が好きだ。食べることが楽しみになる。ホットウイスキー紅茶割りも美味しい。体が温まる。ジョニ赤とリプトン紅茶と耐熱グラスにポッカレモン。ついつい飲みすぎてしまう。
11月5日(木)
今日も明日も椎茸は休み。最終の菌床をもらいに行った。これで一応畑いっぱいに菌床を蒔くことができた。以前、私設編集者に渡されていた「樹雨屋23」の添削原稿で23を書いた。
11月6日(金)
今日は、24をなんとか書き上げて彼に渡したい。書き上げることはできなかったが、なんとかまとまった形で私設編集者に見せることができた。
話はかわってしまうが、さっきまでBSの民放で高倉健のホタルを観ていた。「夜叉」「ホタル」「あなたへ」田中裕子との3連続共演になるのか。今日発見したことは、もう一度観てみる。思い入れなのだろう。渥美清と高倉健は永遠でいてほしいという自分の願望があったのだろう。いつも次の映画を待っていたのは、それでもヒーローを期待して待っていた。しかし、封切られる映画で、二人のありのままを見せられるといたたまれなくなる。寅さんの最終も辛かった。健さんのあなたへも辛かった。でも、あなたへを観たからこそ、今日のホタルはよかった。
11月7日(土)
朝から樹雨屋24の書き直し。なんとか清明の前半が終わった。後、後半を書いて、穀雨に移れば第1章春の完成。12月に入る前に完成させたい。

11月8日(日)
昨日葉玉ねぎの苗を買ってきて、玉ねぎを50本植えた。今日は収穫祭がある。
8時半から3時半まで収穫祭。自治会は模擬店でうどんを売っていた。一日中雨。何人くらいお客さんがきたのだろうか。教師をやっている時の知り合いにも何人かであった。それから冷えた体を温めにコジャックに行って温めてきた。そこでもしばらく会っていない元同僚に出会った。今日入会したと言っていた。コジャックでギリシャ神話を書いて家に帰ってきて、これを書いている。またこの後、山の神講の集まりがある。
11月9日(月)
今日は畑を見て、支所へ行って配布物をもらい、組長さんに届けて、コメダ珈琲店で樹雨屋25を書いて、ボランティアにでかけた。詳しくはシイタケ日記を。
11月10日(火)
もう、立冬が過ぎてしまった。一昨日の収穫祭のテントは昨日も雨だったので片付けられない。
11月11日(水)
明日はコンクリート打ち。山の中の作業道にコンクリートを敷く。そんなに辛い作業ではないが、天候によっては辛い。昨年は雨。
今日はコジャックで昨日図書館で借りた吉本隆明と小川国夫の本を読んだ。ドストエフスキーは、母親から、聖書を教材にロシア語を学んだという。ドイツ語の聖書はルターが翻訳したんだという。日本ではどうかを小川国夫が語る。文語だった聖書を口語に変えるスタッフに小川国夫は参加していた。文語の持つ力に対応する口語。やさしい言葉で格調高い文体を使うこと。しかし、うまくいかなかった。と語る。
11月12日(木)
今日はコンクリート打ち
11月13日(金)
昨日のコンクリート打ちは2時ごろ終わった。朝の8時半に集合して、現場に向かう。現場は共有林の作業道。この作業道ができたおかげで共有林の手入れは楽になった。ぼくが高校生の頃は現場まで歩いて登った。1時間弱の山道を歩いて登って、植林や下草刈り、間引きなどの作業をして、弁当を食べて、また作業をして帰ってきた。でも、今は現場まで車でいける。その作業道に毎年コンクリートを打っている。小型のミキサー車14台分。約100メートルのコンクリート道ができる。まだまだ全部がコンクリートではない。来年もまたこの作業があるのだろう。役員12名でやる。役につくまでこんなことをしているのさえ知らなかった。
現場に着くと、レーキ、スコップ、箒、ガチャガチャを持って、ミキサー車を待つ。ガチャガチャというのは名前が分からないのでみんながそう言っている。鉄でできた長方形の枠中は網目でそれに取っ手が日本付いてあり、その取っ手で長方形を持ち上げて流れたコンクリートを叩いていく。表面がきれいに仕上がる便利なものだ。
ミキサー車が着くと、道路にレーキとスコップでコンクリートを伸ばし、鉄筋を埋め込み木の枠を入れる。その上をガチャガチャで叩いていく。ガチャガチャは新入りの役、去年も今年もぼくはそれをやった。ミキサー車は、3、3、4、4の順でやってきた。午前中に10台、午後4台。ミキサー車はコンクリートを吐き出すと山を降りてコンクリートを積めてくる。その間1時間ほど。色んな話が出る。そして1日の作業が終わった。山の風は冷たい。
11月14日(土)
去年の9月15日からカウントしだした閲覧数が、今日一万件を超えました。

11月15日(日)
昨日はコジャックで『宗教論争』を読んでいた。最終章で、小川国夫が吉本隆明にオウムの話を聞き出すところがある。詳しくは知らないが、パリで10ヶ月ぶりに大規模テロ事件があったと報道されている。村上春樹の『アンダーグラウンド』
と『約束された場所』を読んだのはいつだっただろう。『宗教論争』の中で吉本が宮沢賢治のことを引用しているところがあるので次に引用します。

……宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』で、彼の宗教への理解の境界線を示している部分があります。「人は各々に異なる神を持っているが、自分と違う神を待つ人の善行にも、やはり涙こぼれることとはありうる。しかし、自分の神が本当の神だという主張の対立は決して勝負がつかない」ということを言っています。……………

11月16日(月)
また月曜日が始まる。昨日は樹雨屋24の原稿直しを私設編集者と紅葉を見に行ってきた。花折トンネルを抜けると雨。そういえば葛川小学校に勤務している頃は、毎日こんなだった。11月に入るといくら途中側が晴れていても、トンネルを抜けると曇りか雨。そして11月中に一度雪になった。コースは葛川の梅の木から久多へ。引き返して朽木西。そして市場から安曇川を回って帰ってきた。花折峠から和邇までずっと雨が降っていた。

11月17日(火)
昨日は何を考えたのだろう。宮沢賢治の「自分の神が本当の神という主張の対立は決して勝負がつかない」唯一神のイスラム文化と多数神の日本やギリシャ文化。しかもギリシャの神は人間の反映だという。プラトンが書く「饗宴」原題は「シュンポシオン」一緒に飲むという意味らしい。ワインを飲みながら語り合う。それはギリシャ神話のオリンポスの神殿で行われていることと同じだ。そして、自分の神が本当の神だというようなことは話さない。昨日資生園で何人かの人とパリの悲惨な事件の話になった。報復で人が殺されるということは戦争状態なのだろう。もちろん戦争は殺し合いである。「どうしたらいいのか」と郡山(仮名)君に尋ねられた。「壊滅させなければ終わらないのでしょうか」とも彼は言った。テレビでの報道でそんなことを言っていた。話し合いの場を持つことしか今まで戦争が集結したことはない。太平洋戦争にしたって、一人になっても戦わなければという軍部の考えがあった。しかし話し合いを選択した。自分の神だけが本当の神だと思っていてもいいけれど、それを主張して対立することは、結論のない平行線どこへも到着しない。言われれば当たり前のことなんだが、そのことを忘れてしまう現実の中で、宮沢賢治という人はそんなことを忘れずに考えていた。

11月18日(水)
朝、広島の事を書いて、樹雨屋を書いて玉ねぎを植えて、資生園へ行ったら、このページを書けていなかった。

11月19日(木)
朝起きたら、大変なことになっていた。ダッシュボードのカウントをみると、今日の訪問者数が300人を超えていた。それに、コメントが130を超えていた。全部英語、グーグルの翻訳を使って日本語に訳して読んで、スパムというのだろうか、医療関係、とか、ポーカーとか、ビジネスとか、どうなっているのかわからない。でも中には、面白かったから、また読むとかのコメントも混ざっている。承認、スパム、ゴミ箱に振り分けているがまだまだくるみたいだ。とりあえずこれを書かないと忘れてしまうので今書いている。

11月20日(金)
何があったのかわからないが、自分のペースを取り戻して書かなければ。昨日もおとといもシイタケ日記が書けなかったので今から書くことにする。
シイタケ日記を書いて畑へ行って、ブログに寄せられたコメントを翻訳しながら読んだ。もひとつ何が何だか分からない。昨日600人以上の人が閲覧してくれて、200近いコメントが寄せられた。ほとんどが英語で、ドイツ語が一件あった。褒め言葉もたくさんもらった。今日も200以上の人が閲覧してくれている。今日は、ブログとシイタケ日記しか書けなかった。明日は書きます。

11月21日(土)
昨日は「心的現象論序説」をコジャックで1時間ほど読んだ。フロイトとヤスパース、よくわからなかったが、夢とか、無意識を自分ということで解決するのか、もう一人の自分を設定するのか。それからリビドー。不安。人間が母親の胎内から外にでた時の不安、常にそこへ還って行くんだとフロイトは言う。人間は母親の胎内で生物の進化を体験し、思春期まで過ごすことによって、人間のたどってきた歴史を体験して成人になる。そんなことも書いてあった。それから図書館へ行って、曽野綾子のギリシャ神話を半分読んだ。トロイア戦争。神の陰謀。

11月22日(日)
昨日は三井寺へ月亭八方の落語会を聴きに行ってきた。午前中は車で琵琶湖を半周してきた。琵琶湖大橋を渡って、北上、彦根、米原、長浜、木之本。そして高島。道の駅で木炭を買って帰ってきた。私設編集者と忌野清志郎をかけながら。6時に違う友達と三井寺へ。三井寺はライトアップをしていて、それを訪れている人もいた。手作りの高座で6時から始まった。一席目は八方。ブラジルの話。海外寄席が結構あるみたいだ。ユーチューブの志の輔も、タイでの落語がアップされている。八方によると、海外へ進出した企業が開催しているとのことだ。今年はブラジルだったが、昨年はフランスとイタリアに行ったそうだ。面白おかしくそんな一席目、落語ではなかった。そして次は女のお弟子さん。大津市出身でまだ一年とちょいぐらい。三席目は大衆演劇の新作。中間をカットして20分くらいか。家に帰ってiPadを開けるとコメントが千以上あさ、200ほど処理したのにまた増えていた。ネットで調べてみると、結構そんなことがあるらしい。今日の朝は1800になっていた。気になるが気にしないで、書いて行こう。英語だけでなく、ドイツ語やスペインごでも来た。

11月23日(月)
今日は小椋神社で新嘗祭がある。11時からだ。昨日は午前中にコジャックへ行って「心的現象論序説」を読んだ。なんとか読み続けられそうなところまできた。今日は多分読めないだろう。新嘗祭があるので。

11月24日(火)
つげ忠男の「成り行き」が届いたので貰ってきた。平和堂の扶桑書店から連絡があったのは先週で、忘れてしまっていた。資生園から、今日はお休みしてくださいという連絡があって思い出した。新作二本に旧作が一本。その旧作「懐かしのメロディー」のリメイクが一緒に載っている。とても良かった。

11月25日(水)
朝から、門前の三人でお寺へ赤ちゃんのお祝いに行ってきた。寒い朝だった。生まれて丁度一ヶ月だという。母子ともに元気で、子どもがやってくるというのはみんなを明るくしてくれる。その後田んぼの草刈をして、礼服をクリーニングに出して、ホームページを管理してくれている同級生の所へ行ってきた。今まで、1日の訪問者は二、三十人だったのが、600人を超えるようになった。何が起こっているのかわからないし。月に一度程度だった。コメントが何百と届く。もちろん迷惑メールもあるが、励ましのメールも届いている。英語のコメントがほとんどだが、スペイン語やフランスごのコメントもある。話し合った結果というか、結論は、ちゃんと書いて行くこと。コメントチェックは英語の勉強のつもりぐらいに考えて行こうということになった。

11が26日(木)
朝起きて、樹雨屋1立春に届いたコメントを今日は辞書を使って読んでいった。中学、高校の頃の予習を思い出す。サゼスチョンが提案だったり、シェアが共有だったり、結構面白い。

11月27日(金)
もう、2時間ほどコメントチェックをしていて、シイタケ日記もあまり書けなかった。今日は学習発表会を見に行く。その後、森田屋へ寄って帰ってくる予定。

11月28日(土)
昨日、大津市民会館に着いたのは9時45分ぐらいだったろうか。第二ブロックの演奏が始まっていた。その次が第3ブロック。みんな楽しそうだった。青空物語の役名ケンタとスーの二人にも出会えた。元気だった。学校も楽しいと言っていた。昼ごはんはどこの店もいっぱいで、知人がやっているローソンでサンドイッチと紅茶を買ってなぎさ公園で一人で食べた。毎年そこへ寄るのだが、今年は知人に出会えなかった。寒かったが景色はよかった。写真を何枚か撮った。明日それらのうちの一枚をアップするつもりだ。その後、アレックスシネマで映画を観て近江神宮の森田屋へ寄った。映画は時間つぶしのつもりだった。入ってすぐに見ることができる映画。ちょうど、2時45分から始まる「ミケランジェロプロジェクト」2時間はあっという間に過ぎた。実話の映画化らしい。ナチスから美術品を取り返す。人の命と美術品。人間は繁殖するが、美術品は再生できない。そんなに深刻でなくこのテーマを扱う。森田屋にはいつもの常連さんがみんな集まっていた感じだった。どういうことを今日は考えたのだろう。人間っていうのは毎日考える。ぼくが今日考えたことは、二つの知らなかったらよかった、ことを知ってしまったこと。ここでは言えないが、一つは、今まで言わなかったけど、他には言ってないけど初めてお前だけに言う。もう一つは、知っていますか。誰々が、今こんな状態なんです。知ってしまったぼくに何ができるんだ。できることなんか何もない。ぼくには、金も力もない。身近にいて頑張っていた人が躓いた時に何もできない。ぼくがゼウスであったなら、誰かを落とし入れて身近な人を救うことができるのに。ぼくがイエスであったなら、その人の代わりに受け入れられるのに。ぼくはなにもできない。何も書けない。現実はこういうものなんだろう。

11月29日(日)
田んぼの草を刈って、今日で飛び飛びの4日になる。来年こそは田んぼを上手にやってみたい。自治会や田んぼ、畑、そんな仕事は、本当はそんなに時間が費やされていないのに、心に負担がかかってしまう。

11月30日(月)
今日も、朝からコメントのチェック。英語の勉強。そして、8時を回ってこれを書いている。何度も書いた失敗しているが、今週こそは樹雨屋の25を書き上げてしまう。
コメダ珈琲で25をちょっと書きました。

12月1日(火)
昨日のシイタケ日記を書かなければ。

12月2日(水)
漁師をやっている同級生から、魚を焚いたので取りに来いという電話があったので取りに行く。漁港まで取りに行った。小春日和の琵琶湖はおだやかで、iPadで何枚か写真を撮った。その後、共通の友人である、このサイトを制作してくれた同級生にも魚を届けた。そこで1時間くらい話していた。アメリカからのアクセスが多くなったのは何故だろう、それに、中国、フランスからのアクセスも急に増えた。色々推理してくれたがわからない。最後にトリックがあばかれて、がっかりするかもしれないが、今は書くことの励みにしようという結論になった。スパムメールも含めて、3000以上のコメントが届いた。とりあえず全部チェックできた。

12月3日(木)
今日は夜に、自治会関係の忘年会がある。仕事に行って、コジャックに寄った。忘年会はギリギリ間に合った。

12月4日(金)
朝からずっと、探し物。探し物が見つかったのは10時前だった。そして、その探していたのは報告書だったんだが。それを書き上げて仕上げたのが11時半。市役所へ持っていかなければならないが、仕事にいかなければならない。
今日も 何かを考えたが忘れてしまった。忘れなかったことを少し書いておこう。昨日、ラジオで違う番組だが同じことを言っていた。どうして、子供のころは一年が長かったのに、今はこんなに短く感じるのだろう。それは経験の差なんだという。10歳の子の一年はその子が生きてきた一生の十分の一にあたる。60歳の人間だったら六十分の一。同じ時間を同じ地球で過ごしているのだから同じ1年間なのに、一人は10年間しかこの世界にいない。一人は60年もこの世界にいる。60歳の人間にしたら、たかが一年、10歳の人間にしたらこの一年は、というように思うということなんだろう。そこで、今日またラジオを聞きながら考えたこと、ラジオで古い曲が流れていた。森進一のデビュー曲「女のためいき」若い奴は知らないのだろう。曲を知っているものだけの楽しみがある。ということは長く生きている奴は楽しみが、若い人間よりも多いのかも知れない。それを
楽しみと考えればの話だが。

12月5日(土)
今週も時間が終わってしまう。樹雨屋25を書いて私設編集者に読んでもらった。最近は辛辣でなくなった。褒めてくれる。そんなもんだろう。制作側に回ってきているような。それでいて最良の読者になってくれている。そして、英語のコメントのチェック。申し訳ないが、コメントに返信するほどの英語力がない。一ヶ月に一通の頃はそれでも、書こうという気になったが1日に何百通も送ってきてもらったら、僕の力ではどうしようもない。今は、できるだけグーグル翻訳を使わないで、単語を検索しながら読んでいる。一週間前よりは英語に慣れたような気がする。もう少し待って下さい。僕が英語に慣れるまで。でも、その時の返信は多分日本語だと思います。

12月6日(日)
昨日の忘年会で今週2つの忘年会が終わった。自治会館に弁当をとっての忘年会。同時刻同級生の仲間で忘年会をやっていて、呼び出しがあったがやめた。今日も防災訓練があるから。もうすぐ防災訓練にいかなければならない。昨年はハグについての防災訓練だった。地震が起きて、地域の体育館に避難してくる人をカードを使って振り分ける。ゲーム感覚の防災訓練。今年も室内でやるみたい。

12月7日(月)
田んぼに行って草刈り、冬の草刈りは汗も出てこない。空気も川の 水も澄んでいる。イノシシたちが、夜の間 にやってきて川の土手を掘り起こしている。草の根っこにできた芋を食べているのか、ミミズを食べているのか。畑や田んぼは柵や電線があるので入れない。道路の縁を掘っていたのが、どんどん下の方まで進んでいるところもある。土手が崩れそうなところもある。30年以上前だが、小学校の修学旅行で六甲山のユースホステルに泊まった。食事が終わって就寝までの間に子どもと一緒に見物に行ったが、厨房の裏の残菜を食べに6、7頭のイノシシたちがやってきた。山間部の僻地校の子どもも、ぼくもこんなに近くで野生のイノシシを見たのは初めてだった。その頃は六甲山では野生のタヌキかムジナか忘れたが、人里まで出てきて人と野生動物との共存という観点で放映されたテレビニュースを見た。あの頃と今は共存と獣害という言葉で区別されている。獣害がで始めた頃に農業組合の役員に選ばれたことがあった。その頃よりもどんと事態は深刻になってきている。これからどんな知恵を人間が出してくるのだろう。共存に戻ってほしい。

12月8日(火)
今日は、一昨日に水につけておいたもち米で餅をついて小椋神社へ。スノという行事。春の祭の神輿を維持するために作られたもので、年の暮れにみんなが集まって餅をつき、神社に備えて、すき焼きでお酒を飲む。ぼくの子どもの頃はそうだった。しかしいつの間にか当番が餅をついて神社へ持って行って、お下がりを配るという形になった。それでも、夜は当番の家ですき焼き。そして今は、餅だけになってしまった。
昔の人は楽しみがなかったから、こんなことで楽しんだんだろうということを聞くことがある。そうだとしたら、今はこういう形の楽しみは楽しみじゃなくなったのか。それはそうだと思うが、最近、楽しみだけでやっていたのじゃないんじゃないかとも思う。めっきりツナガリが消えつつあるのを実感する。それも、ツナガリが必要なくなってきたのか。

12月9日(水)
今日も朝目を覚ますと。コメントがたくさん届いていた。URLが記載されたものが急にたくさんやってきたどうすれば良いのだろうかわからない。

12月10日(木)
今日は、マキノまで炭を買いにいく予定。5袋買ってきた。それから仕事を待つまで、コメダ珈琲でコメントチェックと樹雨屋27を少し書く。コメダに入った時にYahoo!へニュースが入った。野坂昭如が死んだニュース。連作広島でも書いたように。ぼくの学生時代のヒーローだった。田原総一郎のコメントと野末陳平のコメントを読んだ。大島渚が死んだ時にテレビで流れていたビデオ。今回も流れるのだろうか。直木賞受賞の「アメリカひじき、火垂るの墓」笑わせるのと泣かせるのが上手な作家だったと思う。太宰治や織田作之助のようにぼくは読んだ。読めば、又次の作品を待つ。野坂昭如があまり書かなくなって、 ぼくはつかこうへいを読んだ。三島由紀夫に認められ、大江健三郎に嫌われた(?)野坂昭如。そこが魅力だった。思想的には大江より、反三島だったと思う。ぼくにとってだけかもしれないがラジカルとかリベラルな人だった。
空から降ってきた物資、その中の紅茶パックがアメリカのヒジキだというアメリカひじきは好きだった。もう一度読み返すつもりだ。

12月11日(金)
「みんなが広島にいた、その4」を書き足した。その後、樹雨屋の26を書き足して、野坂昭如の記事を読みにコメダ珈琲へ。朝日新聞の山藤章二の記事が良かった。新聞によって取り上げ方が違う。

12月12日(土)
お初穂料を集めに回った。一軒一軒回って集めてくる。集めたお金はお正月に山へ持っていく。そんなことで昨日はブログも書けなくて、今日(13日)書いた。季節を感じてしまう。年の暮れ、これから〆縄、門松作りもある。

12月13日(日)
樹雨屋25と26は書き始めだがプリントアウトしてコメダ珈琲へ来た。出掛けに昔買った野坂昭如のコレクションで「アメリカひじき」を探したがなかったのでコレクション3を持って来た。全3巻だが、中短編ばかり集めてある。火垂るの墓もアメリカひじきも載っていなかった。野坂昭如といえば、学生時代に歯を磨くのは歯を傷めるというのを書いてあったのでそれを実践して、歯がボロボロになってしまったが、野坂昭如は歯の頑丈な人だったのだろう。コレクション3を持って出たのは「死の器」という小説の題名が懐かしかったから。

12月14日(月)
樹雨屋では今ちょうど清明のことを書いている。あと一つ穀雨を書けば第1章の春が終わる。二十四節気でいうと、今は「大雪(たいせつ)」「閉塞く冬と成る(そらさむくふゆとなる)」天地の陽気が塞がるのだそうだ。資生園の15分の休憩時間にハウスから外に出て、空を見上げていると、本当に雲で空が総がれていることが多い。夜は星が見えて、宇宙と繋がっているのがわかるが、日中は大気が太陽の七色の青だけをつかまえて放り出しているから空が青い。あの青空は地球の大気が作った地球のカバーなのか。その先に宇宙が広がっているのかとか思いながら雲と空を見ている。塞がれて、オープンにされて、雲が動いているのを見ている。

12月15日(火)
昨日は、広島から牡蠣が送られてきたので牡蠣パーティーをするという知人の家に行ってきた。喜界島と立山とエビスビールを持って。1斗缶が2つ。大量の牡蠣を炭火で焼いて食べた。

12月16日(水)
スパムメールの数が少なくなってきた。お褒めのコメントもたくさんいただいて承認している。もどかしいのは英語を読むのに精一杯で返信できないこと。辞書で単語をひいて頑張っているのだがどういうことを返信していいのか悩んでしまう。とりあえず、おごらず、浮き足立たず自分のペースで書いていこうと考えている。お褒めのコメントありがとうございます。

12月17日(木)
森田屋へもち米を届けに行った。相変わらずレギュラー総出演。カウンターの端から端まで、定位置に常連さんが並ぶ。娘の運転で行ったので、喜界島水割り4杯で帰ってきた。

12月18日(金)
コメダ珈琲で私設編集者と樹雨屋25、26を推敲する。3時間ほどねばって資生園へ行った。言い回しや、句読点、漢字の使い方なんかを指摘してくれる。3時間も推敲しているわけではない。世間話や昔の話をして、最後にアイパッドで本文を直していく。とても頼りになる編集者だ。全部言われた通りに直すわけではない。時々抵抗する。抵抗した方が良い文章が書けるような気がしているだけだ。
まだ連絡がないが、もうすぐ吉本隆明全集が届く。今回は「情況」が入っている。ぼくがはじめて読んだ、吉本隆明の本。その他、情況への発言も載っている。最近心的現象論序説を読んでいない。

12月19日(土)
今日も飲み会、久しぶりのメンバー。堅田周辺で飲む予定。今日はかなり冷え込んでいる。昨日、比良が初冠雪。琵琶湖の向こうに伊吹山が白く視えていた。

12月20日(日)
本当に年末になってきた。今日は大変だった。娘を堅田駅に送っていくときに車がおかしい音を立てていた。信号で止まったときに娘が、後方から音がしているので後ろのタイヤをドアを開けてみたが異常を確認できなかったのでドアを閉めた。そしたら、しばらく音がしなくなった。それでパンクでなかってよかったと判断した。しかし、また音がし出した。スピードを上げると音がしない。また、パンクじゃないなと二人で確認した。堅田駅まで送って行って帰ってからタイヤを見ると、左前のタイヤの空気がぬけている。雄琴のガソリンスタンドまで行って修理してもらうことにしたが、お店の人はタイヤの溝がすり減ってなくなっているので、修理剤が修理しても削られるかもしれないという説明をする。そして専門の人に見てもらったら、前のタイヤは二本とも丸くなっているので変えた方がいいと言われ悩んだ末に変えてもらうことにした。そしたら、これはスタッドレスかと聞かれたので、はいそうですと答えると、じゃあ後ろのタイヤもまだ溝は残っているが、スタッドレスの機能は落ちているので、変えた方がお得ですよという話になった。二本なら55,000円ぐらい、四本なら83,000円になるという。二、三千円のつもりが八万円。1時間ぐらいかかるというので、銀行へお金をおろしに行こうとしたら、財布がない。カバンに入っていない。カバンに入れたと思ったが入っていない。それで歩いて家まで帰るしかない。1時間で往復できるだろうと思って家まで歩くことにした。歩いて家まで帰ったら45分かかった。しかし、歩いていると普段、車で通ると気づかないことにも気づく。ここから琵琶湖が見えるのか。ここにこんな店が出来ていたのか。ここのフェンスはこんな高さだったのか。速度って何なのだろう。もしかしたら、速度は僕たち人間からたくさんのものを奪っていっているのではないか。速度は見せかけだけ、便利になって、楽になっているけど、感じたり考えたり、想像したりすることを奪っていっているのではないか。宮沢賢治が「足で、書け」と言った。本当に書こうと思うことは速度に奪われないようにしろということかもしれない。そんなことを考えながら家に着いた。自分の部屋の入口に財布は落ちていた。入れたつもりという記憶は正しかった。また歩き出したら今度は知人の車が止まって、雄琴駅まで送ってくれた。また、負と正のシーソーが始まっている。明日から気をつけなければ。ちなみに、タイヤ代の損失はパチスロで七万円帰ってきた。

12月21日(月)
今日は何があるのだろうか。注意しなければ。昨日書くのを忘れていたことを思い出した。スタッドレスに履き替えた後、担当の人に。
「僕はこのエクストレイルのディーゼル、6速が好きです。強くて丈夫で、もう作っていないので、大事に長く乗って下さい」
以前にニッサンでも聞いた言葉だ。嬉しかった。

12月22日(火)
昨日はなんとか無事に過ごせた。今日も油断せずに過ごそう。今日もコメントをたくさん送ってもらった。嬉しい。返事を書けないで申し訳ない。

12月23日(水)
朝8時小椋神社へ。今日は小椋神社の正月準備。新嘗祭以来かと思っていたら、12月8日にここの大宮神社に鏡餅をおそなえに来たのを思い出した。小椋神社の中に、5つの祭りの時の神社がある。その他にも、子安神社、多賀神社、伊勢神社、稲荷神社、塚本神社………といくつも神社があり、その〆縄(注連縄)を取り替える。まずは掃除と〆縄に別れての作業。すごい落ち葉の量。それから溝掃除。〆縄の方は、先に〆縄を作ってくれている方がいて、その人の指導の元に、〆縄に米の穂や神主さんがが切っておいてくれた紙(御幣ごへい)を取り付ける。神社の他に拝殿やトイレ、社務所、鳥居、ご神木にも取り付ける。午後からは雨が降って来た。あめの予報だったので、仕事を急いだので3時には終わった。いつもはもっとかかるそうだ。神主さんが小椋神社のホームページを作っているので、近頃は遠いところから訪ねてくる人もいるそうだ。この日は大学生と教官がやってきた。立命と筑波の教授が名刺を置いていった。宮参りもあった。

12月24日(木)
朝から、樹雨屋27を書き足して、昨日書けなかった昨日のブログを書いた。
また、スパムのメールが増えている。それでも何か嬉しい。連作、広島のその5を書き始めた。鷹野橋商店街。随分変わったのだろう。本通りも変わったのだから仕方がない。それにしても、パチンコ屋と映画館があんなにあって、そこで過ごしたことを文章に書くというのは楽しい。

12月25日(金)
朝から鷹野橋を書き足した。次々にあの時代のことを思い出すが、店の名前や人の名前が曖昧だ。それから樹雨屋27も書き足した。天動説と地動説を二つの目につなげるところ。それこそ、この前書いた。速度が考えることを置いていってしまう。ゆっくり書いていこう。扶桑書店から昨日の電話があったので、朝から、吉本隆明全集11を受け取ってきて、コメダ珈琲で読み始めた。情況の中の倒錯の論理、三浦朱門批判から始まって、第三の新人の批判。ほとんどの内容を覚えていた。太宰治のエピソードを持ってきて、偽インテリを批判する。
〈作家は無用の長物だが、苦悩だけはひと一倍やってきたという自信がある。もし、 なんか苦しいことがあったらたずねてきたまえ。そういうときにはなにか言ってあげられるかもしれない〉
太宰治が旧制新潟高校へ講演に行った時のエピソード。
〈太宰さんはどうして作家になったのですか〉と講演後、数人の学生たちと佐渡のみえる海岸に散歩に出かけたとき学生が問いかける。〈なにをやっても駄目でほかに何にもなれないから仕方なしに作家になったのだ〉というようなことを太宰はこたえる。すると学生が〈ぼくもなにをやっても駄目だから作家になる資格があるわけだ〉と冗談半分にいう。太宰は真剣になって〈なにをいうんだ。きみはまだ何もやったことなどないじゃないか。何もやったこともないくせにそんなことをいうのはただの怠惰だ〉そしてそのあと学生に〈作家は無用の長物………………〉を言う。

12月26日(土)
今日から資生園を休んで、正月の準備。まず、今日は福井まで買い出しに行ってこようと思う。敦賀「日本海さかな街」へ買い出し。この前に来た時よりフードコーナーが増えていて、入り口がわかりにくくなっていて、端っこの方から入った。できるだけ目を合わさないようにして進む。声をかけられて値引きされると
なかなか断れない。まずつかまったのがタコワサ、タコワサと数の子で2,400円と声をかけられて、買おうとしたが大粒イクラも買うつもりだったので、それも値引きしてくれるのかと思って、「これを入れたら?」と交渉したら、横からおばちゃんがそれを入れて4千円と即答。さっきの値引きは消えてしまった。渋々4千円を払い、次へ、エビ、伊達巻、チーズちくわ大、塩ポン酢を買って、帰りに若狭の梅干し直売でチーズ梅のペーストを買って、マキノに回って炭を買って帰ってきた。

12月28日(月)
朽木を流れる写真は安曇川の風景、昨日は朽木を抜けて福井県へ行ってきた。2015年の最終の週になった。今日は8時半から自治会館の門松飾り。もう直ぐいかなければ。

12月29日(火)
昨日は、自治会館へ行って、〆縄をつけて、門松を立てる。〆縄は7つ、門松は小が5対、大が1対。〆縄は株が右、門松は右が雄松、左が雌松。松竹梅。それが終わってから大掃除、溜まりに溜まった段ボールと新聞紙を古紙ステーションへ持っていく。沢山の人が来ている。捨てられるものはできるだけ棄てる。なかなかできないものだ。

12月30日(水)
昨日は山へ行ってきた。山登りではない。山へ行って樒(しきび)をとってきた。今日はお墓へ行くつもりだ。昨日は私設編集者に電話をすると、
「今、墓の掃除に来ているので、後30分ほどしたら迎えに来てくれ」というので、30分ほど、コメダ珈琲で、樹雨屋27を書いて迎えに行った。そして、家で軽トラックに乗り換えて、共有林の作業道を登っていく。何回か軽トラックとすれ違った。みんな、正月の準備だ。大原との境目まで行って、樒を50本ほど切った。樒の葉の上にうっすら雪が乗っていた。それから、違う道を通って、伊香立線に出る前に、ウラジロというシダの葉っぱを30枚ほどとった。鏡餅の下に飾ったり、〆縄に飾ったりするやつだ。それから南庄の知り合いの田んぼに行って、梅の木の枝をとった。これは門松に使う。それと熊笹。松はホームセンターで買ってある。山を降りてくると12時を回っていたので、星乃珈琲で昼飯。吉田松陰の話をしていて、これは樹雨屋で使おう利兵衛さんと渓流センターの大将が話す話題と同じだ。

12月31日(木)
今日は餅つき、森田屋も餅つきだということだ。
8時半まで、青空物語の17話を書いてというか、チャレンジして、連作広島を開けて、少し書いてから餅つきの準備にかかった。もち米は前日に水につけてある。LPガスに火をつけて、蒸す作業。お湯を沸騰させて蒸し器に米を入れて、その間に餅つき機、取り桶、麹蓋を用意、それらに片栗粉を刷り込んで、蒸しあがった米を餅つき機に放り込む。そんな過程を思いながらやっていたら、湯気が吹き出している筈の蒸し器から湯気が上がっていない。ボンベのガスがなくなりかけている。ボンベを振ると火力は強くなる。必死でボンベを振りながら、とりあえずひと臼分は蒸しあがった。それを餅つき機に入れて、又ボンベを振る。餅つき機で餅がつきあがったのを取り桶に移して、急いで、鏡餅3段重ねを作る。それが終わってすぐに、ボンベ振り。なんとかふた臼目も蒸しあがった。ガスがなくなったらキッチンのコンロに移すとか、知人に電話してガスを借りるとか、色々考えたが、なんとか蒸しあがって、安堵した。ふた臼目の餅は床の間や神棚に置く2段重ねようにちょっと大きいのを10個、そのあとは雑煮用の子餅。それが終わったのが11時。
それから、買い物をして、ユニクロでセーターを買って伊香立中学校へ。今日はそこでタイムカプセルの掘り起こしがある。五年前には、成人式を終えた彼、彼女たちが小学校でタイムカプセルを掘り起こした。その時は小学校の運動場が一面雪だった。しかも長靴が埋まるほどの。昨日は雪もなく。雨も降らず。まあまあの天気。伊香立中学校に着くと5、6人が集まっていた。ここに埋めた、違うこちらだろう。というのは、植樹とタイムカプセルがごっちゃになって意見が一致しない。それと、五年前と違うのは、全員が社会人。あのころは学生をやっている子がほとんどだった。それに今回は結婚して子どものいる子も何人かいる。滋賀県を飛び出して仕事をしている子もいる。
中学校は敷地が広いので、タイムカプセルを埋めるエリアも十分にあり、看板も立ててあるが、看板の字が消えている。看板の前を掘り出したが、なかなかタイムカプセルは出てこない。じゃあ看板の下か後ろかと掘り出したが、出てこない。二本あったスコップの一本の柄が折れても出てこない。掘る作業は男の子。ぼくや中学校の教師も交代で掘ったが出てこない。わたしも掘る。女の子が一人掘ってくれて、その子がブルーシートの先を発見した。大手柄だ。そこへ、電話で呼び出した。助っ人がスコップを持って現れる。看板の前でなくちょうどその横、ひと区画離れた場所。なんでそこに看板を立てたのかわからない。看板は目印になっていなかった。十年の間に何があったのだろう。わざとそこに立てたとは思えない。倒れた看板を立て直した時に移動してしまったのだろうか。
しかしそのあとが大変だった。巨大すぎる。それに水が出てくる。粘土が溶けて、それにブルーシートがくっつく。一苦労、二苦労して掘り出した。偉いなと思ったのは、ピカピカの長靴とまっさらのスコップを持って参加した子。コメリで買ってきたと言っていた。社会人だ。まあ楽しく掘り起こして温かい珈琲を飲んで。そのあとが大変だった。巨大なタイムカプセルだったので掘り起こした土を戻しても穴は埋まらない。残土が積み上げてあったので、それを運んで埋めるようにしたが、地面が液状化して、ブカブカになってしまった。スコップで突きながら固めたが、なかなか硬くならない。なんとか埋めて、解散したのは4時ぐらいだっただろうか。6時から飲み会。それは又次の機会に書く。
一人一人が、一人一人の人生を歩んでいる。月並みな感想だが。そう思った。

 

 

5 Comments

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